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流れを忘れた水 1

 サリア水車村で最初に案内されたのは、川沿いの小さな家だった。

 水車小屋から少し離れているが、それでも窓を開ければ水音が聞こえる。ごとり、ごとり、と水車の回る音が、壁越しに柔らかく響いていた。

 家の中には、幼い男の子が寝かされていた。

 母親はさきほど橋の向こうでミラに助けを求めた女性だった。目元は赤く、何日もまともに眠れていないのが分かる。

「この子です。三日前から熱が下がらなくて……薬草茶を飲ませると少し楽になるんです。でも、夜になるとまた熱が戻って」

 ミラは寝台の横に膝をついた。

「診ますね」

 そのすぐ後ろにエリオットが立つ。

 室内には母親と薬草師リーナ、監視役の男が二人。扉の外には役人がいる。オリヴァーは窓際で、水桶や薬草の束、煎じ薬の容器を静かに見ていた。

 自由に動ける状況ではない。

 だが、診察はできる。

 ミラは男の子の手首にそっと触れた。

 熱い。

 けれど、高熱というほどではない。呼吸も荒くはない。喉と胸に少し炎症の気配があるが、普通の風邪とは違う。

 ミラは目を閉じた。

 身体の中にある白い流れを探す。

 すぐに見えた。

 男の子の喉元から胸へ向かう白い流れが、途中で不自然に曲がっている。流れそのものが弱いのではない。進む道を間違えたように、同じ場所をぐるりと回っている。

 橋の下で見た水と、似ていた。

「……水路みたい」

 ミラが小さく呟く。

 エリオットがすぐに聞き返した。

「患者の中の流れが?」

「はい。喉から胸へ行くはずの流れが、途中で曲がっています。黒いものは深くありません。でも、流れが戻る道を忘れているみたいです」

 監視役の一人が眉をひそめる。

「不審な術式の説明か?」

 エリオットが静かに言った。

「診察記録です。発言を遮らないでください」

 その声音は穏やかだったが、相手を黙らせるだけの重さがあった。

 ミラは一度息を整え、白花の光をほんの細く指先に灯した。

 黒を剥がさない。

 無理に押し流さない。

 男の子自身の白い流れが、元の道へ戻れるように照らす。

 喉元に、露のような光が広がる。

 男の子の眉間の皺が少し緩んだ。

「……息、楽……」

 かすかな声だった。

 母親が口元を押さえる。

「本当に……?」

「まだ熱は下がりきっていません」

 ミラはすぐに言った。

「今日は呼吸を少し楽にしただけです。原因が残っているなら、また戻るかもしれません」

「原因……」

 リーナが苦い顔で薬草茶の器を見た。

「やっぱり、水かい」

 ミラはすぐには頷かなかった。

 勝手な断定はできない。ここには監視役がいる。

「使った水と薬草を確認したいです。患者さんの治療のために必要です」

 監視役が扉の外へ目を向ける。

 役人が入ってきた。

「水場への接近は禁止だ」

「水場へ行きたいとは言っていません」

 オリヴァーが穏やかに答えた。

「ここにある薬と水を確認するだけです。診療内容の範囲ですね」

 役人は不快そうに眉を寄せたが、患者の母親の前で拒否はしづらい。

「……家の中にあるものだけだ」

「承知しました」

     

 リーナは二つの小瓶を机に置いた。

「こっちは井戸水で煎じた薬草茶。こっちは祠の下から流れてくる古い水路の水で煎じたものだよ。昔から、熱冷ましにはそっちの水がいいと言われてきた」

「今は?」

「効きが鈍い。むしろ、飲んだ後に熱がぶり返す子がいる」

 ミラは小瓶へ手をかざした。

 井戸水で煎じた方は、白い流れが薄くまっすぐだった。薬効は弱いが、濁りはない。

 祠の水で煎じた方は違った。

 薬草の流れは本来なら柔らかくほどけているはずなのに、瓶の中で輪を描くように曲げられている。黒い筋は細い。けれど、その細さがかえっていやらしい。

「こちらだけ、曲がっています」

 ミラは祠の水の瓶を指した。

「毒ではありません。水そのものが悪いというより……薬草の力が、身体へ届く前に迷ってしまう感じです」

「迷う?」

 リーナが聞く。

「流れを忘れている、としか言いようがなくて」

 役人が苛立たしげに言った。

「曖昧な言葉ばかりだな」

 オリヴァーが静かに瓶を見た。

「では、職人の言葉で言いましょう。祠の水で煎じた薬にだけ、外部媒介に似た歪みがあります。患者の症状との照合が必要です」

「祠へ行くことは認めない」

「まだ求めていません」

 オリヴァーは役人を見た。

「ただし、原因水の確認を拒否する場合、その判断は記録に残ります。再発した時、治療師側が原因確認を求めたにもかかわらず拒否された、と」

 役人の頬がぴくりと動いた。

 エリオットは既に記録帳へ書いていた。

 時刻。

 患者の症状。

 井戸水と祠水の比較。

 役人の発言。

 左手の文字は少し硬いが、読みやすい。

 ミラはその横顔を見て、心を落ち着けた。

 一人で言い返さなくていい。

 父が道具と言葉で守ってくれる。

 エリオットが記録と位置取りで守ってくれる。

 リーナが村の薬草師として証言してくれる。

 ミラはもう一度、男の子の額へ手をかざした。

「今日のところは、井戸水で煎じた薬に替えてください。祠の水の薬は、一度止めた方がいいです」

 リーナが頷く。

「分かった」

 母親が涙ぐみながら頭を下げる。

「ありがとうございます」

 ミラは首を横に振った。

「まだ原因は残っています。だから、無理に安心しすぎないでください。でも、呼吸は楽になるはずです」

 男の子は、さきほどより穏やかに眠っていた。

    

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