白花を運ぶ文 3
「……水が、忘れています」
ミラは呟いた。
役人が顔をこわばらせる。
「何をしている! 不審な術式を使うな!」
エリオットがすぐに言った。
「彼女は水に触れていません。村内にも入っていない。見ていたのは、あなた方も同じです」
オリヴァーも穏やかに続ける。
「これは村外へ流れ出た水の確認です。水場に立ち入ってもいません。もしこれを禁じるなら、その理由も記録します」
役人は歯を食いしばった。
村人たちはざわめいている。
「光った……」
「白い花が」
「水が少し澄んだように見えた」
「やっぱり祠の水がおかしいんだ」
役人は叫んだ。
「黙れ!」
しかし、もう完全には押さえ込めなかった。
患者の母親が、子どもを抱いたまま泣きそうな声で言う。
「お願いです。診せてください。水場に行かなくていい。家でいいんです。診るだけでいいから」
役人は沈黙した。
この場で拒否すれば、患者悪化の責任が自分に残る。
しかも記録されている。
村人たちが見ている。
村長マルコが再び言った。
「診察だけでも許可してほしい。村長として、私も記録に署名する」
役人は苦々しく言った。
「……村内への自由な立ち入りは認めない」
ミラは息を止めた。
「ただし、患者診察に限り、監視付きで一時入村を許可する。水場、祠、水車小屋裏への接近は禁止。治療内容はすべて記録する」
リーナが安堵の息を漏らした。
ネリアはじっと役人を見ていた。
村長マルコは静かに頭を下げる。
「感謝する」
その声には、感謝とは違う硬さがあった。
オリヴァーは頭を下げる。
「承知しました。条件を記録します」
エリオットも書き留める。
ミラは橋の向こうを見た。
水車の音が、昨日より近く聞こえる。
ごとり、ごとり。
白い花は水路の端で、淡い光を失い、ただの小さな花に戻っていた。
けれど、村人たちは見た。
役人も見た。
水と白花が、ミラに応えたことを。
橋を渡る時、役人は苦い顔で言った。
「妙な真似をすれば、すぐに退去させる」
オリヴァーは穏やかに答えた。
「患者診療と記録に徹します」
エリオットはミラの半歩後ろに立つ。
「ミラ」
「はい」
「今日は診療だけだ。水場には近づかない」
「分かっています」
「本当に」
「本当に」
ミラは頷いた。
しかし、胸元の白花はまだ温かい。
水車村の水は、確かに何かを訴えていた。
祠の下。
白い花。
流れを忘れた水。
ミラは、まだ触れない。
けれど、見ることはできる。
記録することはできる。
そして、戻る道を探すことはできる。
その日の夕刻、旅治療師一行がサリア水車村に入ったという報告は、すぐにローヴェル男爵の元へ送られた。
現地役人は、自分の判断を守るためにこう書いた。
――村民から強い診療要請あり。
――患者悪化の恐れがあったため、監視付き・患者診療限定で一時入村を許可。
――水場および祠への接近は禁止。
――外部治療師の術式については監視継続中。
報告を受け取った男爵は、机を強く叩いた。
「なぜ入れた!」
怒鳴り声が部屋に響く。
側近は頭を下げるしかなかった。
男爵はベルトラン侯爵からの密命を思い出していた。
白い噂を広げるな。
守護騎士の火種を育てるな。
だというのに、現地役人は限定付きとはいえ、ミラたちを村へ入れた。
しかも村人の前で、白い花の反応が見られたという。
「監視を増やせ」
男爵は低く命じた。
「治療内容を逐一報告させろ。水場と祠には絶対に近づけるな。白い魔法については、不審な術式として記録するんだ」
「承知しました」
「それから、退役騎士の身分照会を急げ」
男爵の声が低くなる。
「あの男を切り離せれば、治療師は動きにくくなる」
さらにその報告は、王都のベルトランの元へも届く。
ベルトランは読み終えると、しばらく無言だった。
そして、静かに紙を握りつぶした。
「愚か者が」
白い噂を封じるための監視が、白い光の証人を作ってしまった。
村人の前で。
役人の前で。
水と白花が反応した。
それは、彼が最も嫌う形だった。
伝承が、現実へ近づいている。
「記録を抑えろ」
彼は側近に命じた。
「現地役人には、不審な術式として報告を統一させる。村人の噂は水利不安による混乱として処理しろ」
「承知しました」
「そして、祠へは近づけるな」
ベルトランの声は冷たかった。
「そこだけは、絶対に」
サリア水車村では、ミラが最初の患者の家へ案内されていた。
監視役が二人つく。
リーナが先導し、エリオットがミラの半歩後ろ。オリヴァーは少し離れて、水路の音と石畳の古い刻みを観察している。
村長マルコは役人の視線を受けながらも、村人たちを下がらせ、道を開けた。
村人たちは、道の端からミラを見る。
好奇心。
不安。
期待。
そして、白い花を見た者たちの、言葉にできないざわめき。
ミラはその視線を感じながら、深く息を吸った。
一人で奇跡を起こすために来たのではない。
患者を診るために来た。
水の流れを記録するために来た。
そして、戻る道を探すために来た。
水車は、ごとり、ごとりと回り続けている。
その音は、まるで村全体の鼓動のように、ミラの胸の奥へ響いていた。




