水車村の門前 3
レーンへ戻ると、ハンスが驚いて出迎えた。
「早かったな。何かあったのか」
オリヴァーが事情を説明すると、ハンスの顔が険しくなった。
「水利監察? そんな話、こちらには来ていない」
「急に決まったのかもしれません」
エリオットが言う。
「あるいは、急に決めたことにしたのか」
トマが低く呟いた。
マルタも薬草小屋から出てきて、嫌そうに顔をしかめた。
「役人ってのは、困った時だけ仕事熱心になるね」
「マルタさん、サリアに知り合いは?」
ミラが尋ねると、マルタは少し考えた。
「水車番の婆さんなら昔から知ってる。サリアの薬草師とも何度か薬草を交換したことがあるよ」
「連絡は取れますか?」
「正規の橋を通らずに文を入れる方法なら、なくはない」
トマが眉を上げる。
「婆さん、それは」
「密入村じゃないよ。文を送るだけだ」
マルタは涼しい顔で言った。
「向こうに本当に患者がいて助けを求めてるなら、村の側から声を上げてもらう必要がある」
ミラは小さく頷いた。
また、一人で動かないための手順が増える。
夕方、リンドルからの便が届いた。
差出人はライヘル。
ミラ宛ての手紙と、オリヴァー宛ての手紙が別々に封じられている。
ミラは自分宛ての封を開いた。
――サリア水車村には、古い水と白花に関する伝承があります。
――水場、祠、白い花、古い石、水音、夢、体調の変化を記録してください。
――力を引き出そうとしないこと。見えたものだけを書いてください。
――黒いものを消そうとせず、清い流れがどこからどこへ戻ろうとしているのかを見てください。
――必ず父さん、エリオットさんと相談してから動くこと。
――無理はしないでください。
――あなたの役目は、一人で奇跡を起こすことではありません。
ミラは最後の一文で、少しだけ目を伏せた。
「兄さん……」
エリオットが静かに尋ねる。
「何と?」
「サリアには、水と白花に関する古い伝承があるそうです。水場や祠、白い花、夢、体調の変化を記録するように、と」
エリオットの視線が、オリヴァーへ向いた。
オリヴァーは自分宛ての手紙を読み終えたところだった。
その顔は穏やかだったが、目の奥に重いものがある。
「父さん?」
ミラが呼ぶと、オリヴァーは手紙を畳んだ。
「ライヘルは、サリアでミラの白花が強く反応する可能性があると見ている」
「私の?」
「そうだ」
「どうして……」
「伝承があるからだよ。水と白花に関する古い言い伝えが、君の力の変化と重なる部分がある」
オリヴァーは、そこで言葉を選んだ。
エリオットも黙っている。
核心には触れない。
まだ、今は。
「だから、サリアでは治療より先に観察を優先しよう」
オリヴァーは言った。
「水車の音、白い花、祠、水場。何か見えても、すぐに触れない。まず記録する。黒いものがあっても、消そうとしない」
「はい」
「エリオット君」
「はい」
「サリアでは、今まで以上にミラを止めてほしい。白花が強く反応した時、本人は自分の限界を見誤る可能性がある」
エリオットは真っ直ぐに頷いた。
「分かりました」
「ただし、彼女を閉じ込めるのではなく、記録できる状態に戻すために止める」
「はい」
ミラは二人を見た。
何かを伏せられている。
そう感じなかったわけではない。
けれど、今の説明は必要なことだった。
兄は心配している。
父も心配している。
エリオットも、きっと。
ミラは手紙を胸に抱えた。
「私は、一人で奇跡を起こす役目ではありません」
小さく呟く。
エリオットが静かに言った。
「そうだ」
オリヴァーも頷く。
「君は、見えた流れを記録して、扱い方を覚える。必要なら私たちが止める。必要なら一緒に考える」
「はい」
ミラは深く息を吸った。
サリアには入れなかった。
けれど、準備する時間ができた。
そう考えることにした。
その夜、レーンの村長宅で、サリアに入るための対策が練られた。
ミラは旅治療師としての登録証を確認する。
オリヴァーは魔道具職人としての身分証と、水場調査の依頼書の形を整える。
ハンスは、レーンの集落でミラたちが行った処置と被害防止の証言状を書く。
マルタはサリアの薬草師へ文を出す準備をする。
トマは旧水車道の入口付近の地図を補足する。
エリオットは、それらを一つの手順にまとめた。
一、再訪は正規街道から。
二、役人に出す書類は登録証、職人証、レーンの証言状。
三、サリア村内の薬草師または水車番から依頼が来るまで、無理に入らない。
四、旧水車道には入らない。入口の確認のみ。
五、白花の反応が出ても、ミラ単独で行動しない。
六、水場、祠、白花、夢の記録を優先。
七、政治的な問答はオリヴァーが対応。エリオットは身分照会に備える。ミラは治療師として必要事項のみ答える。
ミラはその手順を見て、小さく笑った。
「私、黙っていた方がよさそうですね」
「必要なことは話していい」
エリオットが言う。
「ただ、相手が言葉を利用しようとしている時は、こちらも言葉を選ぶ」
「難しいです」
「だから一人で答えない」
その言葉に、ミラは頷いた。
一人で決めない。
レーンで作った規則が、もう次の村で役に立とうとしている。
同じ夜、サリア水車村の奥では、一人の老婆が水車小屋の扉を閉めていた。
村の入口には役人が立っている。
村人たちは外部の者と話すなと言われている。
治療師を村へ入れるなとも。
だが、老婆は昼間、橋の向こうに立つ若い娘を見た。
胸元に手を当て、水車の音を聞いていた娘。
その時、水車小屋の裏に咲く白い花が、風もないのに揺れた。
老婆は古い祠の方を見た。
祠の石は、長い年月で苔むしている。
その下から湧く水は、今朝から少しだけ濁っていた。
「……来たのかね」
老婆は小さく呟いた。
誰にともなく。
水車は夜の中で、ごとり、ごとりと回り続けている。
その音は、まるで何かを待つ鼓動のようだった。




