水車村の門前 1
レーンの集落を発つ朝、湿地の空気は昨日より軽かった。
北の薬草場はまだ封鎖されている。黒ずんだ薬草も使えない。ジルも自由に歩ける身ではない。
けれど、黒い種は抜き取られ、命令痕の糸は切れた。
集落は、ひとまず息をつけるところまで戻っていた。
「サリアまでは、正規の街道を使う」
トマが地図を広げながら言った。
「旧水車道は使わない方がいい。ジルが仕事を受けた場所が本当にそこなら、何が残ってるか分からない」
「同感です」
エリオットが頷く。
「旧道の入口は確認する。ただし、今日は入らない」
「今日はサリアに着くことが目的ですね」
ミラが言うと、オリヴァーが静かに付け加えた。
「着いても、すぐ中へ入れるとは限らないけれどね」
「え?」
「サリアは水利が重要な村だ。村外の治療師や魔道具職人が来れば、警戒される可能性はある」
オリヴァーの言い方は穏やかだったが、エリオットはその言葉の奥を読んだように目を細めた。
「誰かが先に手を回している可能性もありますね」
「ある」
オリヴァーは短く答えた。
ミラは胸元の白花に触れた。
サリア水車村。
清い水と白花の伝承があるという村。
そこに、黒い媒介の糸も伸びているかもしれない。
胸の中には期待と不安が混じっていた。
サリアへ向かう街道は、初夏の日差しに照らされて白く乾いていた。
レーンの森を抜けると、空気は一気にからりとする。道端には背の低い草花が揺れ、遠くには小川に沿って並ぶ柳の木が見えた。
ミラは歩きながら、何度か水袋を口にした。
エリオットが細かく声をかけるからだ。
「飲め」
「さっき飲みました」
「日差しが強い」
「……はい」
ロアンが後ろで小さく笑った。
「エリオットさん、完全にミラちゃんの監督係ですね」
「必要だからな」
エリオットは真面目に答えた。
「本人に任せると、治療と調査を優先して水を飲み忘れる」
「否定しづらいです……」
ミラが小さく呟くと、オリヴァーが隣で頷いた。
「否定しない方がいいね」
「父さんまで」
「コックス家は自覚が薄いから」
「父さんもコックス家です」
そう返すと、オリヴァーは少しだけ目を逸らした。
エリオットが静かに言う。
「似ていますね」
「エリオットさん、その話はもういいです」
ミラは少し頬を膨らませた。
重い旅路のはずなのに、こうして言葉を交わせることがありがたかった。
昼を過ぎる頃、遠くから水車の音が聞こえ始めた。
ごとり、ごとり。
ゆっくりと水を受けて回る、低く丸い音。
ミラは足を止めた。
胸元の白花のペンダントが、ほんのり温かくなる。
「ミラ?」
エリオットがすぐに気づいた。
「水の音が……」
ミラは遠くを見る。
街道の先に、川が流れていた。川辺には木造の水車小屋がいくつも並び、白い水しぶきが初夏の光を受けてきらめいている。
そのさらに奥に、村の屋根が見えた。
サリア水車村。
川沿いには、小さな白い花が咲いている。
風に揺れるそれを見た瞬間、ミラの胸の奥で何かが静かに震えた。
懐かしいような。
知らないはずなのに、知っているような。
「……白い花」
ミラが呟くと、オリヴァーが横からそっと言った。
「記録しよう。今は見るだけだ」
「はい」
エリオットも頷く。
「触れない。近づきすぎない。まず村で話を聞く」
「分かっています」
ミラは深呼吸した。
白花の温かさは消えない。
けれど、暴れるような反応ではなかった。
まるで、遠くから呼ばれているようだった。




