戻り始める湿地 3
その日の夕方、ミラたちはサリア水車村へ向かう準備を始めた。
すぐに発つわけではない。
ジルの容態を一晩見て、湿地の反応を朝に再確認してからになる。
オリヴァーは封じ筒を白石布で何重にも包みながら言った。
「この黒い種は、リンドルへ戻す前にサリア周辺の反応と照合したい」
「サリアまで持って行くんですか?」
ミラが尋ねる。
「厳重に封じた状態でね。命令痕の反応は旧水車道へ引いた。この種も同じ方向に反応するなら、何かがある」
「水車村に」
「あるいは、その周辺に」
エリオットが静かに言った。
「旧水車道を使うのは危険ですね」
「使わない方がいい」
ダリオが即答した。
「正規の街道で行く。だが、旧道の入口は確認する」
トマが地図を広げた。
「街道からサリアへ入る道はここだ。旧水車道は森の中を回る。昔は粉挽きが通っていたが、今はほとんど使われていない」
オリヴァーは地図を見て頷く。
「そこに受け渡し場所があるなら、サリアの水場とも関係している可能性がある」
ミラは胸元の白花を握った。
サリア水車村。
清い水と白花の伝承がある村。
まだ見ぬその場所へ、黒い糸もまた伸びている。
王都の王立魔術院では、ライヘルがオリヴァーから届いた報告書を読んでいた。
机の上には、ミラの簡潔な経過報告、エリオットが描いた配置図の写し、オリヴァーの技術報告が重ねられている。
命令痕。
外部媒介。
冷えた銅貨。
黒い種。
湿地の流れ。
旧水車道。
サリア水車村。
読み進めるほど、ライヘルの顔色は悪くなった。
オルガが向かいの椅子で腕を組む。
「顔が死んでるよ」
「死にますよ、これは」
「まだ生きてる」
「比喩です」
ライヘルは額を押さえた。
「ミラの白花は、人の魔力路だけでなく土地の流れにも干渉し始めています。エリオットさんの右手は薬指の位置感覚まで戻りかけている。父は黒い種を抜き取り、命令痕の外部接続を切った。しかも次はサリア水車村です」
「それが?」
「サリアには古い伝承があります」
ライヘルは立ち上がり、本棚から古い地方伝承記録を取り出した。
ページをめくる指が速い。
やがて、ある箇所で止まった。
――サリアの清水には、白花を浮かべて病を鎮めた女神の伝承あり。
――水車の輪は命の巡りを表す。
――黒く濁りし水、白花の乙女の手によりて澄む。
――祠の下に湧く水は、流れを忘れた病を戻すという。
オルガの表情が変わった。
「……重なるね」
「重なりすぎています」
ライヘルは低く言った。
「エリオットさんの村の治癒の女神伝承。ミラの白花。土地の流れ。水。祠。白花の乙女」
言葉を重ねるほど、現実味が増していく。
ライヘルはそれが嫌だった。
研究者としては知りたい。
古文書の断片と、現実の反応が繋がっていく瞬間など、めったにあるものではない。
だが、中心にいるのは妹だ。
王都で平凡だと扱われ、居場所をなくし、それでも旅治療師として患者を見捨てられない妹。
そのミラが、伝承の中心へ引き寄せられている。
「研究対象として見れば、これほど貴重な事例はありません」
ライヘルは吐き出すように言った。
「でも、妹なんです」
オルガはしばらく黙っていた。
そして、少しだけ肩をすくめる。
「君の家は本当に似た者親子だね」
「今それを言いますか」
「言うよ。妹は困っている人を放っておけない。父は職人として黒い種を見過ごせない。兄は資料室で徹夜してでも二人を守ろうとする」
「……否定しづらいです」
「なら、研究者の目で守りな。感情だけでは守れない」
その言葉に、ライヘルは黙った。
やがて深く息を吸う。
「ミラ本人には、まだ伝えません」
「女神の血筋かもしれない、という話?」
「はい。今伝えたら、あの子は背負います。絶対に」
「だろうね」
「でも、サリアでは強い反応が出る可能性があります。だから指示は送ります。端的に。実務的に」
ライヘルは新しい紙を取り出した。
ミラ宛て。
――サリア水車村には、古い水と白花に関する伝承があります。
――水場、祠、白い花、古い石、水音、夢、体調の変化を記録してください。
――力を引き出そうとしないこと。見えたものだけを書いてください。
――黒いものを消そうとせず、清い流れがどこからどこへ戻ろうとしているのかを見てください。
――必ず父さん、エリオットさんと相談してから動くこと。
――無理はしないでください。
そこまで書いて、ライヘルは少しだけ筆を止めた。
最後に一文を足す。
――あなたの役目は、一人で奇跡を起こすことではありません。
次に、オリヴァー宛ての手紙を書く。
こちらには、もっと踏み込んだ内容を記した。
サリアの伝承とエリオットの村の伝承が近いこと。
白花の乙女という記述。
水車の輪が命の巡りを表すという解釈。
ミラの力が水場や祠で強く反応する可能性。
本人にはまだ血筋や女神伝承との直接的な繋がりを告げないでほしいこと。
最後に、ライヘルは別紙を取り出した。
オルガが目を細める。
「それは?」
「魔術院内の古文書閲覧記録の照会依頼です。セヴラン派がサリア水車村や白花伝承に関する資料を過去に閲覧していないか調べます」
「いい判断だね」
「それから、アルベルト団長側へも注意喚起を」
「何を出す?」
「西方で黒い媒介による足止めと、地方権力を使った妨害が起きる可能性。ミラの力や伝承のことは伏せます」
「妥当」
ライヘルはペンを握り直した。
騎士団にも、魔術院にも、王宮にも、敵がいるかもしれない。
けれど、味方もいる。
情報の出し方を間違えなければ、ミラたちの旅を守る道は作れる。
夜の資料室で、ライヘルは一人、古文書を閉じた。
白花の乙女。
治癒の女神。
守護騎士。
清い水。
黒く濁る流れ。
すべてが、サリア水車村へ集まり始めている。
「ミラ……」
小さく呟く。
妹にはまだ言えない。
けれど、守る。
自分にできる方法で。
資料を読み、記録を繋ぎ、情報の道を作る。
それがライヘルの戦い方だった。
遠く西の空の下、ミラたちはまだサリアへ向かっていない。
けれど水車村の水音は、もう物語の奥で静かに回り始めていた。




