出立の支度 2
予定していた地点まで歩き、診療所へ戻る頃には、エリオットの額に薄く汗が滲んでいた。
ミラはすぐに右腕の熱を確認する。
「少し上がっています」
「痛みは三」
「自分から言えましたね」
「言わなければ君が聞く」
「よく分かっています」
「だいぶ分かってきた」
エリオットが少しだけ意趣返しのように言う。
ミラは思わず笑いそうになったが、治療師の顔を保って記録した。
――歩行確認。祠への道半分まで往復。右腕熱感わずかに増加。痛み三。休息後軽減見込み。
「今日はもう右腕の訓練はしません」
「歩いただけだ」
「歩いただけで熱が上がりました」
「……分かった」
エリオットは素直に椅子へ座った。
ミラは祠の泉の水を少し含ませた布を用意し、右腕に当てる。以前よりも熱の引き方が穏やかだ。暴れるような瘴気の反応もない。
白い刃の光は、静かに揺れている。
まるで、眠っているようだった。
「この調子なら、数日後にはもう少し距離を伸ばせます」
「村を出るには?」
「まだ判断できません」
「君は本当に慎重だな」
「慎重でないと、また木剣を握る人がいますから」
「もう握らない」
「今は?」
「今は」
「やっぱり信用できません」
エリオットは少しだけ眉を寄せた。
けれど、その表情は以前よりずっと柔らかかった。
その時、扉の外から声がした。
「ミラさん、いるかい?」
村長だった。
ミラが扉を開けると、村長の隣に見慣れない男が立っていた。灰色の外套をまとい、背には古びた革鞄を背負っている。旅の古書商だろうか。鞄の端からは紙束と細い巻物が覗いていた。
「こちら、王都から来た古書商の方だ。ミラさん宛ての手紙を預かっているそうでね」
「私に?」
ミラは胸が跳ねるのを感じた。
男は丁寧に頭を下げ、懐から一通の手紙を取り出した。
ミラはすぐに手紙を受け取った。
封蝋はない。魔術封もない。
普通の糸で綴じられた、簡素な手紙。
差出人の筆跡は兄のものだった。
兄は手紙を送る際はいつも魔術院の定期便を使っていたはずだ。それがなぜかいつもある封蝋も魔術封もなく、古書商を使って送ってきた。
差出人はライヘル・コックス。
エリオットが立ち上がりかける。
「兄からか」
「はい」
ミラは封を開ける前に、古書商へ礼を言った。
「届けてくださってありがとうございます」
「いえ。こちらも地方の古文書を仕入れる用がありましたので」
古書商は穏やかに笑った。
だが、その目は少しだけ周囲を確認しているようにも見えた。
ミラは気づかなかったが、エリオットはその視線を見逃さなかった。
古書商が村長と共に去ると、診療所の中は静かになった。
ミラは手紙を開いた。
最初に書かれていたのは、いつもの兄らしい小言だった。
食事は取っているか。
睡眠を削っていないか。
村の世話になれるなら遠慮するな。
薬草の残量を記録しなさい。
ミラは少しだけ苦笑する。
「兄さんらしいです」
「心配性か」
「かなり」
読み進めるうちに、ミラの表情が少しずつ変わった。
エリオットは黙って見守る。
やがて、ミラの指がある一文で止まった。
――王都側に確かめるべき資料があることは分かった。ただし、扱いが少し複雑だ。軽率に人へ話さないように。
ミラは息を呑んだ。
さらに読む。
――長逗留は勧めない。患者の移動が可能で、君が安全と判断するなら、当初の予定に近い形で次の逗留先へ向かいなさい。村に留まるほど、周囲の目も増える。
周囲の目。
その言葉が、妙に引っかかった。
兄は、ただ心配しているだけなのだろうか。
それとも、何かを掴んだのか。
ミラは最後の一文まで読む。
――彼は、君が思っている以上に重要な患者かもしれない。だからこそ、患者本人を一番に見なさい。
ミラは手紙を胸元に引き寄せた。
「何と?」
エリオットが尋ねる。
ミラは少し迷ったが、隠すべきではないと思った。
「兄は、王都側に確かめるべき資料があることは分かった、と書いています。ただ、扱いが複雑だと。軽率に人へ話さないように、とも」
「つまり、何かあったんだな」
「おそらく」
「俺の記録か」
「詳しくは書かれていません」
「書けなかった、のかもしれない」
エリオットの声は低かった。
ミラは頷いた。
「長逗留は勧めない、とも書いています」
診療所の中の空気が少し重くなる。
エリオットはしばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「なら、やはり出るべきだ」
「ですが、あなたの腕はまだ」
「移動できるかどうかは、君が判断するんだろう?」
「はい」
「なら、判断してくれ。俺はそれに従う」
ミラは手紙を握ったまま、エリオットを見た。
彼はもう、無理に剣を握ろうとした時のような焦り方をしていない。
それでも、進もうとしている。
自分の腕のことを知るために。
失われた剣を取り戻すために。
そしてきっと、ミラを一人で行かせないために。
そう思った瞬間、ミラは少しだけ視線を落とした。
「……明日から、移動を前提にした確認をします」
「何をする」
「歩行距離を少し伸ばします。荷物を持った状態での負担も見ます。ただし、右手で荷物を持つのは禁止です」
「分かっている」
「痛みが四を超えたら止まります」
「分かった」
「移動中も一日二回、腕を確認します」
「ああ」
「無理をしたら、村に戻ります」
「……それは困るな」
「なら、無理をしないでください」
エリオットは小さく息を吐いた。
「君と旅をするには、ずいぶん条件が多い」
「治療継続のための同行です」
「そうだったな」
そう言ったエリオットの声には、わずかに笑みが混じっていた。
「……そうです」
手紙の紙が、指の中でかすかに鳴った。
王都で何が起きているのか、ミラにはまだ分からない。
だが、兄は何かに気づいた。
そして、長く留まるなと書いた。
ならば、この村にいられる時間はもう長くない。




