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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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出立の支度 1

 王都で静かに不穏なものが動き始めていることを、ミラはまだ知らなかった。

 彼女が知っているのは、目の前の患者の右腕が、昨日よりほんの少し熱を持っていないこと。

 親指と人差し指が、前より滑らかに動くようになったこと。

 そして、軽い棒を三呼吸だけ持てた男が、次の日には五呼吸を要求してくるようになったことだった。

「四呼吸で止めます」

「昨日は三呼吸だった」

「だから今日は四呼吸です」

「五でも変わらないだろう」

「変わります」

 診療所代わりの空き家に、いつものやり取りが響く。

 朝の診療を終えたあと、ミラは机の上に細い木棒を置いた。薬草を束ねる時に使う、軽くて短い棒だ。エリオットはそれを、いかにも不満そうに見下ろしていた。

 右腕にはまだ包帯が巻かれている。手首には女神の護符。

 白花と剣の紋は、普段はほとんど見えない。けれどミラが治癒魔法を流した時や、エリオットが何かを強く意識した時、淡く浮かび上がることがある。

 そのたびに、ミラの胸はざわめいた。

 守護騎士。

 白刃の騎士。

 魔を断つ力。

 エダから聞いた伝承と、エリオットの右腕に見える光は、あまりにもよく似ている。

 だが今の彼に必要なのは、伝説の名ではない。

 指を曲げること。

 熱を抑えること。

 痛みを隠さず言うこと。

 そして、焦らないこと。

 特に最後が一番難しい。

「では、始めます。親指、人差し指、中指の順に添えてください。握り込まないで」

「ああ」

「肩に力を入れない」

「入れていない」

「入っています」

「……分かった」

 エリオットは息を吐き、肩の力を抜いた。

 以前なら、この時点で眉間の皺が深くなっていただろう。今も不満そうではあるが、ミラの指示には従う。たった数日で、それは大きな変化だった。

 右手が木棒に触れる。

 親指が支える。

 人差し指が添えられる。

 中指が遅れて曲がる。

 ミラは彼の手首を軽く支えた。

「一」

 エリオットの呼吸が静かに落ちる。

「二」

 護符が淡く光る。

「三」

 黒い瘴気が、腕の奥で小さく揺れた。

「四。離してください」

 木棒が机の上に落ちる。

 乾いた音が、小さく響いた。

 エリオットはしばらく黙って木棒を見ていた。

 それから、低く言う。

「……できた」

「はい。昨日より一呼吸増えました」

「五でもいけた」

「その台詞が出るうちは、四で止めて正解です」

「君は本当に容赦がない」

「褒め言葉として受け取ります」

「褒めてはいない」

 そう言いながらも、エリオットの口元はわずかに緩んでいた。

 ミラは帳面に記録する。

 ――軽木棒、四呼吸保持。痛み三。熱感増加なし。

 ――本人、継続意欲あり。ただし過負荷傾向に注意。

「今、“過負荷傾向”と書かなかったか」

「書きました」

「読める位置で書くのはどうなんだ」

「自覚していただくためです」

「……治療師というより、教官に近いな」

「騎士団の教官よりは優しいと思います」

「教官は俺に木棒を四呼吸だけ持たせたりしない」

「その教官は、あなたの右腕の魔力路を診られません」

 ミラがそう言うと、エリオットは黙った。

 少し前なら、その沈黙には痛みがあった。

 今も痛みがないわけではない。

 けれど、以前とは違う。

 彼はもう、自分の右腕の現実から目を逸らさなくなっていた。

「次は歩行確認です」

「歩く?」

「はい。村を出る可能性を考えるなら、歩いている時に右腕の熱が上がらないか見ておく必要があります」

 エリオットの目がわずかに動いた。

 村を出る。

 その言葉は、最近二人の間に静かに置かれていた。

 ミラの滞在延長は、長くはない。

 次の逗留先から返事が来る前に、そちらへ向かう準備もしておく必要がある。

 そしてエリオットは、同行するつもりでいる。

 まだ決定ではない。

 だが、彼の中ではほとんど決まっているようだった。

「どこまで歩く」

「今日は祠までの半分。戻ってきて熱を確認します」

「祠まで行かないのか」

「行きません」

「半分なら、歩ける」

「歩けるかどうかではなく、歩いた後に悪化しないかを見るんです」

 エリオットは少しだけ不服そうにしたが、もう反論しなかった。

 その代わり、ぽつりと言う。

「君は、何でも少しずつだな」

「治療はだいたいそうです」

「俺は昔から、少しずつが苦手だった」

「そうでしょうね」

「また知った風なことを言う」

「だいぶ分かってきました」

 ミラが何気なく答えると、エリオットは一瞬言葉に詰まった。

 それから、少しだけ目を逸らす。

「……そうか」

 ミラは自分が何か変なことを言っただろうかと首を傾げたが、深く考える前に道具を片づけた。

     *

 外へ出ると、村は昼前の光の中にあった。

 家々の煙突からは細い煙が上がり、畑の方からは鍬を打つ音が聞こえてくる。井戸端では女性たちが洗濯をしながら話し、子どもたちが鶏を追いかけて走っていた。

 ミラがこの村に来たばかりの頃、エリオットはこうした風景の端にいた。

 声をかけられても短く返すだけ。

 手伝おうとしても右腕が使えず、かえって気を遣われる。

 その気遣いに傷ついて、さらに人から離れていく。

 だが今は、少し違った。

「エリオット、今日は診療所から出てるのか」

 畑へ向かう青年が声をかけた。

「ああ。歩行確認だ」

「歩行確認?」

 青年が首を傾げると、ミラが説明する。

「右腕の熱が、歩いた後に上がらないか確認します」

「へえ。じゃあ、無理すんなよ」

「ああ」

 以前なら、エリオットはその「無理するな」を嫌がったかもしれない。

 けれど今日は、ただ頷いた。

 ほんの少しだけだが、村人の言葉を受け取れるようになっている。

 それもまた、回復の一部なのだとミラは思った。

 村道をゆっくり歩く。

 エリオットの歩幅は大きい。普通に歩けばミラはすぐ置いていかれる。だが彼は、自然と歩調を落としていた。

 ミラはそれに気づいて、少しだけ胸が温かくなる。

「歩く速さは、普段通りで構いませんよ」

「君が記録しづらいだろう」

「私に合わせているんですか?」

「治療の一環だ」

「便利な言葉を覚えましたね」

「君から学んだ」

 エリオットは淡々と言った。

 ミラは返す言葉に迷い、結局帳面を抱え直した。

 村の中心を抜けると、祠へ続く道が見えてくる。

 白い花が道端にぽつぽつと咲いていた。

 風に揺れるその花を見て、ミラは胸元のペンダントに触れる。

 母から受け継いだ白花のペンダント。

 そして、父の言葉を思い出す。

 ――ミラは落ちこぼれなんかじゃない。王都の物差しが、あの子の手を測れなかっただけだ。

 幼い頃、父は何度もそう言ってくれた。

 魔術学校で成績が伸び悩んだ時も、兄のライヘルが周囲から称賛されるたびに自分だけが小さく感じた時も、王都治療院に残れなかった時も。

 父だけは、ミラの手を見ていた。

 派手な魔法ではなく、患者の熱を測る手。

 包帯を巻く手。

 痛みが引くまでそっと添え続ける手。

 今、その手がエリオットの右腕を少しずつ戻している。

 そう考えると、胸の奥が少し震えた。

「どうした」

 エリオットの声で、ミラは我に返った。

「いえ。少し、父のことを思い出していました」

「父親?」

「はい。王都にいます。魔道具工房に関わる技術魔術師です」

「魔術院ではないのか」

「魔術院の人間ではありません。王都の中枢にもあまり関わりません。現場で使う魔道具を直したり、調整したりするのが得意な人です」

「君に似ているな」

 ミラは驚いて顔を上げた。

「私にですか?」

「ああ。派手なものより、実際に誰かの役に立つものを見ている」

 思いがけない言葉だった。

 ミラは胸元のペンダントを握ったまま、少しだけ言葉を失う。

「……父も、そう言ってくれました」

「そうか」

「王都では、私はあまり評価されませんでした。でも父は、私の治癒魔法を否定しませんでした。兄も、父も」

「なら、いい家族だ」

「はい」

 ミラは小さく頷いた。

「母は、私が幼い頃に亡くなりました。でもこのペンダントを遺してくれました」

 エリオットの視線が、ミラの胸元へ落ちる。

 白花のペンダントは、昼の光を受けて淡く光っている。

「そのペンダントが、君をここへ導いたのかもしれないな」

 ミラは答えられなかった。

 そうかもしれない。

 そうではないかもしれない。

 けれど、この村に来てから起きたことを思えば、偶然だけとはもう言えなかった。

「……まだ、分かりません」

「君はいつもそう言う」

「分からないことを分かったとは言えませんから」

「それでいい」

 エリオットは前を見たまま言った。

「君が分からないことを分からないと言うから、俺は信じられる」

 ミラは足を止めそうになった。

 だが、今は歩行確認中だ。

 止まる理由がない。

 だから彼女は少しだけ俯き、帳面の端を指で押さえた。

「……ありがとうございます」

 エリオットは何も言わなかった。

 ただ、歩幅をさらにほんの少しだけ落とした。

 

 



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