黒い札 2
その日の昼過ぎ、ライヘルは自室に戻り、ミラへの手紙を書き直した。
前の手紙は封を切り、細かく裂いて燃やした。
灰になるまで見届ける。
新しい紙には、いつものように近況から書き始めた。
――ミラへ。
――手紙は読んだ。まず、無事でいるようで安心した。食事と睡眠を削っていないか。村の人たちの世話になれるなら、遠慮せず受けなさい。
そこまでは、いつもの兄からの返事だった。
少し考えて、続ける。
――君が相談してきた件について、王都側に確かめるべき資料があることは分かった。ただし、扱いが少し複雑だ。軽率に人へ話さないように。
――治療記録は続けること。特に、発熱、痛み、指の動き、魔力反応の変化は日付ごとに整理しておくこと。
――長逗留は勧めない。患者の移動が可能で、君が安全と判断するなら、当初の予定に近い形で次の逗留先へ向かいなさい。村に留まるほど、周囲の目も増える。
ライヘルは筆を止めた。
周囲の目。
少し直接的すぎるだろうか。
だが、兄の心配としてなら通る。
さらに書き加える。
――ただし、無理な移動は禁物だ。君が治療師として危険と判断するなら、その判断を優先しなさい。
――王都のことは、こちらで慎重に調べる。君ひとりで抱え込まないこと。
最後に、少し迷ってから短く書いた。
――彼は、君が思っている以上に重要な患者かもしれない。だからこそ、患者本人を一番に見なさい。
ライヘルはその一文を見つめた。
オルガに見られれば、少し書きすぎだと言われるかもしれない。
それでも、これは消さなかった。
ミラなら分かる。
研究対象としてではなく、患者として見ろ。
それは、ミラがライヘルに書いてきた言葉でもある。
封蝋は使わなかった。
代わりに、普通の糸で封を綴じる。
魔力封も使わない。
ただの兄から妹への手紙に見えるように。
手紙は魔術院の定期便ではなく、オルガが紹介した古書商の使いへ託すことになった。
古書商は地方の祠や小村を回ることがあり、薬草や紙類も扱う。王都の記録には残りにくい。
安全とは言い切れない。
だが、定期便よりは目立たない。
夕方、ライヘルは再び資料管理室を訪れた。
オルガは黒い札を透明な箱の中へ封じ、机の上に置いていた。
「何か分かりましたか」
「分かったことと、分かりたくなかったことがある」
「どちらから聞けば」
「分かりたくなかった方から」
オルガは箱を軽く叩いた。
「この札は、少なくとも三か月以上前から仕込まれていた術式に繋がっている」
「三か月……エリオットの記録を調べる前から?」
「そう。つまり君を狙って仕込まれたものではない。試し石、白刃紋、瘴気分析、守護騎士候補。そのあたりの封印資料に誰かが触れた場合に反応するよう、あらかじめ置かれていた」
ライヘルは息を呑んだ。
「では、相手は長く監視していた」
「そういうことになる」
「誰が」
「まだ分からない。ただ、術式の癖は正規の王宮魔術ではない。魔術院の一般系統でもない」
「瘴気を使う系統」
「そうだね」
オルガは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「私の書庫の中に、こんなものを置いた人間がいる。腹立たしい話だよ」
「管理官」
「心配はいらない。怒っているだけだ」
彼女は眼鏡をかけ直す。
「もう一つ。札は本来、回収されるはずだった」
「回収?」
「君の魔力署名を拾った後、設置者の元へ戻る仕組みだ。だが、君が拾って封じたせいで戻らなかった」
「つまり」
「相手は気づくよ」
オルガの声は低かった。
「札が戻らない。誰かに見つかった。君がただの若手研究員ではなく、監視に気づく程度には勘が働くと」
ライヘルは静かに息を吐いた。
こちらが気づいたことを、相手も気づく。
完全に隠れることはもうできない。
「では、私はどう動くべきですか」
「派手に動かない。けれど止まりすぎない」
「難しいですね」
「難しいから面倒ごとなんだよ」
オルガは黒い札の箱を棚へしまった。
「今、相手が知っているのは、おそらくこうだ。ライヘル・コックスが封印資料に触れた。試し石、白刃紋、エリオット・バーンスタン周辺を嗅ぎ回っている。そして、監視札に気づいた」
「ミラのことは」
「まだ繋がっていないはずだ」
ライヘルは少しだけ安堵した。
しかし、オルガはすぐに続ける。
「けれど、君が妹さんへ不用意に手紙を出せば繋がる。君が焦って誰かを頼れば繋がる。君が“妹を守りたい兄”の顔をすれば、そこから辿られる」
ライヘルは黙った。
オルガの言葉は厳しい。
だが正しい。
「君が妹さんを守りたいなら、今は妹さんを前面に出さないことだ」
「はい」
「それから、クロフォード卿にも伝えなさい。騎士団側で動くなら、ガレスの名前を直接探るな、と」
「なぜです」
「餌になるから」
オルガは机の上の貸出記録を整えながら言った。
「大物の名前にまっすぐ手を伸ばす者は、たいてい罠にかかる。まず周辺の小さな歪みを拾うことだよ」
ライヘルは頷いた。
「ヴィクトル・グレイン」
「その辺りからなら、まだ不自然ではないかもね」
「分かりました」
その夜、ライヘルはユアンへ短い伝言を送った。
内容は簡素だ。
――当時の伝令記録と配置変更の周辺だけを確認してください。上層部の名には触れないこと。
それだけ。
ユアンなら意味を察するだろう。
そしてライヘルは、自室に戻って机の前に座った。
魔力灯の光は最小限に絞っている。
部屋の隅も、扉の下も、窓枠も、ひと通り確認した。
新しい札はない。
だが、安心はできなかった。
もう誰かがこちらを見ている。
ライヘルはミラの手紙の写しを取り出し、読み返した。
――彼は研究対象ではなく、私の患者です。
その一文が、胸に残る。
ミラはまだ、自分がどれほど危険な場所に立っているか知らない。
エリオットも、おそらく知らない。
だが、まだ敵はミラに辿り着いていない。
それだけが、今の救いだった。
「急げ、ミラ」
誰にも聞こえない声で、ライヘルは呟いた。
「けれど、無理はするな」
矛盾した願いだった。
早く村を離れてほしい。
だが、エリオットの治療を危険に晒してほしくない。
王都に近づいてほしくない。
けれど、王都の記録を知らなければ真相には辿り着けない。
ライヘルは額に手を当てる。
兄としては、今すぐ迎えに行きたかった。
研究員としては、この件を解かずに動く危険も分かっていた。
窓の外、王都の夜は静かだった。
王宮の尖塔が、遠く闇の中に沈んでいる。
そのどこかに、守護騎士の宝剣が眠っている。
そして、その宝剣に繋がる記録は、誰かによって隠されていた。
ライヘルは机の上の資料目録を閉じた。
今はまだ、ミラの名は闇の中に出ていない。
だが、時間の問題だ。
禁術派がエリオットの村へ目を向ければ、旅治療師の噂はすぐに拾われるだろう。
その時、ミラとエリオットがまだ村にいるか。
それとも、もう次の場所へ向かっているか。
その差が、きっと二人の運命を分ける。
ライヘルは立ち上がり、明日の調査項目を新しい紙に書き出した。
試し石。
白刃紋。
瘴気分析記録。
ヴィクトル・グレイン。
伝令遅延。
封印指定者。
最後に、小さく一行を足す。
――ミラへの経路を守ること。
筆を置く。
その時、遠くで鐘が鳴った。
王都の夜半を告げる鐘だ。
その音は、まるで何かの始まりを告げているように、静かな部屋に長く響いていた。




