表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
PR
18/190

黒い札

 ライヘルは、その夜ほとんど眠れなかった。

 机の上には、妹ミラへの返事が置かれている。

 すでに封蝋も押してある。あとは朝になれば、魔術院の定期便に乗せるだけだった。

 だが、その隣にある小さな封じ袋が、彼の意識を何度も引き戻した。

 黒い紙片。

 昨夜、自室の前に落ちていたものだ。

 何も書かれていない。

 ただの紙片に見える。

 けれど、ライヘルが触れた瞬間、指先にぬるりとした嫌な気配が残った。

 瘴気だ。

 魔物から発せられる荒々しいものとは違う。

 もっと細く、整えられていて、人の手で形を与えられた瘴気。

 それが一番気味悪かった。

 魔物の瘴気なら、自然災害に近い。

 だがこれは違う。

 誰かが作ったものだ。

 ライヘルは封じ袋を見つめたまま、深く息を吐いた。

「……急ぎすぎたか」

 ミラからの手紙を受け取り、エリオット・バーンスタンの記録を探った。

 試し石。

 白刃紋。

 守護騎士候補。

 瘴気分析記録の欠落。

 ガレス・オルブライトの関与を思わせる痕跡。

 あまりに多くのものが繋がり始めている。

 だが、繋がり始めたということは、そこに触れた者の存在もまた、誰かに知られるということだ。

 ライヘルはミラへの手紙を手に取った。

 このまま送っていいのか。

 定期便は魔術院の管理下にある。

 本来なら安全なはずだ。

 だが、魔術院内部に誰かが監視の目を持っているなら。

 この手紙は、妹の元へ届く前に読まれるかもしれない。

 そこまで考えた瞬間、ライヘルは立ち上がった。

 手紙と封じ袋を懐にしまい、魔力灯を落とす。

 向かう先は、一つしかなかった。

 

 王立魔術院の古文書庫は、朝でも薄暗い。

 厚い石壁に囲まれた廊下は冷え、窓から差し込む光も、棚に積まれた古文書の匂いに沈んでしまうようだった。

 資料管理室の扉を叩くと、中から低い声が返ってきた。

「開いているよ、コックス君」

 ライヘルが入ると、オルガはすでに机についていた。

 灰がかった茶色の髪をきっちりとまとめ、薄い眼鏡の奥の目は、朝から少しも緩んでいない。

 彼女はライヘルの顔を見るなり、眉をわずかに上げた。

「昨夜より顔色が悪い」

「眠れませんでした」

「若いのに情けないね」

「管理官に相談したいものがあります」

「でしょうね。君は相談なしにここへ来るほど暇ではない」

 オルガは机の上の書類を脇へ寄せた。

「出しなさい」

 ライヘルは懐から封じ袋を取り出し、机の上へ置いた。

 オルガはすぐには触れなかった。

 袋の上に指をかざし、わずかに目を細める。

「……開けたのかい」

「いいえ。拾っただけです」

「どこで」

「自室の前です」

 オルガの表情が変わった。

 ほんのわずかだが、目の奥が鋭くなる。

「君の私室の前に、これが落ちていた」

「はい」

「昨夜、私のところへ来た後で?」

「おそらく」

 オルガは椅子から立ち上がり、壁の棚から銀の細いピンセットと透明な薄板を取り出した。

「直接触った?」

「封じる時に少し」

「次からは触るな」

「はい」

「“次”があればの話だけどね」

 彼女はピンセットで封じ袋を開け、黒い紙片を透明な薄板の上へ落とした。

 紙片はやはり何も書かれていない。

 だが、魔力灯の下に置かれると、端の方にうっすらと黒い脈のようなものが浮かび上がった。

 オルガが低く舌打ちする。

「監視札だね」

「監視札?」

「正式な魔術院のものじゃない。少なくとも、私が管理している部署の道具ではない」

「何を監視するものですか」

「使い方による。会話を拾うもの、魔力署名を記録するもの、特定の資料に触れた者を追うもの。これは……」

 オルガは薄板を回し、紙片の裏へ魔力を通した。

 黒い脈が一瞬だけ広がり、すぐに縮む。

「魔力署名を拾う札だ。君の魔力を覚えようとしていた」

 ライヘルの背筋が冷えた。

「私を?」

「そう。君が何を調べたか、ではない。君という人間を識別するための札」

「では、誰かが私の部屋の前に直接置いたんですか」

「その可能性もある。だが、もっと嫌な可能性がある」

 オルガは紙片を見下ろしたまま言った。

「先日、君は検索盤と古文書庫の索引板に触れた。試し石、白刃紋、エリオット・バーンスタン、瘴気分析。そのあたりの項目に何らかの仕掛けがあったとしたら、君の魔力署名を拾い、札を飛ばすこともできる」

「……封印記録そのものに、罠があったと?」

「罠というより、耳だね」

 オルガの声は冷たかった。

「誰かが、特定の記録に触れた者を知るために、書庫の中へ耳を植えた」

 資料管理室の空気が一段冷える。

 オルガは淡々としている。

 だが、ライヘルには分かった。

 彼女は怒っている。

 自分の守る書庫に、知らない監視術式を仕込まれていた。

 それはオルガにとって、ただの違反ではない。侮辱に近い。

「禁術派でしょうか」

 ライヘルが尋ねると、オルガは少し目を細めた。

「その言葉を軽く使わない方がいい」

「ですが、この札には瘴気が」

「瘴気を扱う者が関わっているのは確かだ。けれど、禁術派と断定するにはまだ早い」

「管理官はそう思っていますか」

「私はね、断定できないことを断定する人間が嫌いなんだよ」

 オルガは紙片を封じ直した。

「ただし、君が触れた記録を誰かが監視していたことは、ほぼ間違いない」

 ライヘルは拳を握った。

「では、相手は私が調べていることに気づいた」

「“何かを調べている”ことには気づいたろうね」

「ミラに繋がる可能性は?」

「今すぐには低い」

 ライヘルは顔を上げた。

 オルガは椅子に座り直し、冷静に言う。

「君は妹さんの名前を資料検索に使っていない。先日ここで“妹”とは言ったが、この部屋の中で会話そのものを拾われていたとは考えにくい。もし拾われていたなら、この札はもっと違う形で動いている」

「違う形?」

「会話の断片を運ぶ札になる。これは魔力署名を拾う札だ。つまり相手は、君という人間に目をつけた。妹さんに辿り着いたわけじゃない」

 少しだけ、ライヘルは息を吐いた。

 だが安心はできなかった。

「私から手紙を辿られれば、ミラに」

「だから、その手紙を見せなさい」

 ライヘルは懐からミラ宛ての封書を取り出した。

 オルガは封蝋を見て、手に取らずに眉を寄せる。

「定期便で出すつもりだったの?」

「はい。ですが迷っています」

「迷って正解だ」

 オルガはきっぱりと言った。

「魔術院の定期便は便利だけれど、記録が残る。差出人、宛先、経由地、魔力封の種類。今の君が使うには目立ちすぎる」

「では、どうすれば」

「紙を変える。封蝋を変える。魔術封は使わない。内容も削る」

「内容を?」

「当然だよ」

 オルガは封書を机へ戻した。

「君は研究者として書きすぎる。黒い瘴気、白い刃状反応、試し石、守護騎士。そんな言葉を並べた手紙が途中で読まれたら、相手に地図を渡すようなものだ」

 ライヘルは唇を引き結んだ。

 反論できなかった。

「ですが、ミラには警告しなければ」

「警告は必要だ。だが、警告の仕方を選びなさい」

 オルガは新しい紙を一枚取り出した。

「家族宛ての近況返信に見せる。薬草の補給、体調の心配、長逗留を避けろという忠告。外から読めば、心配性の兄が旅先の妹に説教しているだけに見えるようにする」

「具体的な情報は?」

「別にする」

「別?」

「口頭で伝えるか、信頼できる使いに符号で持たせる。少なくとも、今回の便には書かない方がいい」

 ライヘルは考え込んだ。

 ミラには早く知らせたい。

 エリオットの試し石反応が記録されていたこと。

 白刃紋と守護騎士候補の文字が残っていたこと。

 負傷記録に欠落があり、誰かが隠した可能性が高いこと。

 だが、それらをそのまま書けば、ミラとエリオットを危険に晒す。

 オルガは、ライヘルの迷いを見透かしたように言った。

「妹さんは旅治療師なんだろう」

「はい」

「なら、旅先で長く一箇所に留まらないことの意味は分かるはずだ」

「……つまり、村を出ろと?」

「“急いで逃げろ”とは書くな。読まれたら終わりだ。けれど、“長逗留は勧めない”“患者の移動が可能なら予定通り進め”くらいなら、兄の小言で通る」

「エリオットの状態がまだ」

「それを判断するのは妹さんだよ」

 オルガの声は静かだった。

「君が王都から決めることじゃない」

 その言葉に、ライヘルは黙った。

 ミラはもう子どもではない。

 旅治療師として各地を回り、王都の治療師たちがいない場所で患者を診てきた。

 自分よりずっと、現場の判断に慣れている。

 それでも心配になるのは、兄だからだ。

「……分かりました」

「分かった顔をするだけじゃなく、ちゃんと分かりなさい」

「努力します」

「努力は信用ならないけど、今はそれでいい」

 オルガは黒い紙片の封じ袋をもう一度見た。

「この札は私が預かる」

「調べるんですか」

「私の書庫に耳を植えた馬鹿がいるなら、その耳がどこに繋がっているかは知っておきたい」

「危険です」

「君に言われる筋合いはないね」

 オルガは薄く笑った。

「それに、こういうものは私の領分だ。君は妹さんへの手紙を書き直しなさい。それから、クロフォード卿への接触も控えめに」

「ユアンのことを?」

「君が騎士団側へ話を持っていくのは読めていた。話す相手もだいたいは。顔に出るんだよ、君は」

 ライヘルは少しだけ苦い顔をした。

「研究員としては致命的ですね」

「直す気があるなら、まだ救いはある」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ