消された記録 3
翌日の夕刻、ライヘルは王都騎士団の訓練場近くにある小さな詰所を訪れた。
ユアン・クロフォードは、訓練後の装備点検をしていた。
短い濃紺に近い髪。
堅実な動き。
騎士としては派手さがないが、立ち姿に隙がない。
彼はライヘルを見ると、少し意外そうに目を細めた。
「コックス研究員」
「クロフォード卿。少し話がある」
「魔術院から騎士団へ正式な用件ですか」
「いや。正式ではない」
ユアンの表情が警戒に変わる。
「では、聞く場所を選ぶべきですね」
彼は周囲に目を走らせ、ライヘルを詰所裏の人気のない通路へ案内した。
石壁に囲まれた狭い場所。
遠くから訓練場の掛け声が聞こえる。
「話とは?」
ユアンが尋ねる。
ライヘルは一瞬迷った。
ミラの名前を出すべきか。
エリオットの名を出すべきか。
だが、遠回しにしすぎれば信用されない。
「エリオット・バーンスタンについて聞きたい」
ユアンの目が鋭くなった。
「なぜ今、その名を?」
「彼の負傷任務について、記録に不整合がある」
「魔術院の人間が、今さらあいつの記録を調べてどうする」
声が硬い。
怒りというより、守るような警戒だった。
ライヘルは静かに答えた。
「妹が、彼を診ている」
ユアンの表情が変わった。
「妹?」
「ミラ・コックス。旅治療師だ。今、バーンスタンの故郷の村にいる」
「……エリオットは生きているんだな」
「そうらしい」
ユアンは目を伏せた。
ほんの一瞬、その顔に安堵が浮かぶ。
「あいつの腕は」
「動き始めていると」
ユアンは息を呑んだ。
「本当か」
「妹の手紙では、指先の随意運動が戻りつつある。右腕に残った黒い瘴気と、白い刃状の魔力反応も確認している」
「白い刃……」
ユアンは何かを思い出すように眉を寄せた。
「クロフォード卿。あなたはバーンスタンと同期だったと聞いている」
「ああ」
「彼の負傷任務について、何か不自然な点はなかったか」
ユアンはすぐには答えなかった。
風が通路を抜ける。
遠くの訓練場で、剣と剣が打ち合う音がした。
「不自然な点なら、あった」
やがて、ユアンは低く言った。
「だが当時は、口にできなかった」
「なぜ」
「証拠がなかった。俺は別任務に回されていたし、エリオット自身は何も言わずに退団した。周囲も、“不運な事故”として片づけた」
「何が不自然だった?」
「任務の配置変更だ」
ユアンは記憶を辿るように話し始めた。
「本来、あの討伐は危険度の高い任務ではなかった。中級魔物の群れの処理。エリオットの部隊なら十分対応できる内容だったはずだ」
「実際には?」
「報告にない上位個体が出た。しかも、黒い瘴気をまとっていたと聞いた」
ライヘルの指がわずかに動く。
黒い瘴気。
ミラの手紙と一致する。
「救援は?」
「遅れた」
「なぜ」
「救援要請の伝達が、途中で止まっていた」
「誰が担当していた?」
ユアンの表情が硬くなった。
「ヴィクトル・グレイン」
その名が出た瞬間、ライヘルは小さく息を吐いた。
エリオットとユアンの同期。
エリオットに劣等感を抱いていたと噂のある騎士。
「グレイン卿は今も騎士団に?」
「ああ。中堅騎士として残っている。ただ、あの件以来、妙に上層部に近くなった」
「任務変更を承認したのは」
「ガレス副団長だ」
ライヘルの脳裏に、オルガが見せた封印記録の薄い頭文字が浮かんだ。
G。
ガレス・オルブライト。
「確証はあるか」
「正式な記録が残っていればな」
ユアンは苦々しく言った。
「だが、俺が見た限り、任務記録は後から整えられている。配置変更の理由も、救援遅延の経緯も、あまりに綺麗すぎる」
「綺麗すぎる記録は、嘘に近い」
「誰の言葉だ」
「資料管理官の受け売りだ」
ユアンはわずかに眉を上げた。
「魔術院にも、まともな人間はいるんだな」
「少数だが」
ライヘルの返答に、ユアンは一瞬だけ口元を緩めた。
すぐに表情を引き締める。
「コックス研究員。エリオットの腕が動いているという話は、騎士団内で漏らすな」
「もちろんだ」
「上層部が知れば、また何かされる可能性がある」
「また?」
ライヘルが聞き返すと、ユアンは苦い顔をした。
「俺は、あいつの負傷が事故だったと本気で信じたことはない」
その言葉は重かった。
「だが、何もできなかった」
ユアンは拳を握る。
「エリオットは、俺たちの中で一番まっすぐだった。田舎出身で後ろ盾もないのに、誰より実力で前へ進んでいた。俺はあいつを妬んだこともある。だが、それ以上に認めていた」
ライヘルは黙って聞いていた。
「それが、右腕を失って退団した。皆、気の毒だと言った。だが俺には、誰かがあいつを都合よく消したように見えた」
「今からでも、調べる気はあるか?」
ユアンはライヘルを見た。
「今さらでもいい。あいつに起きたことが事故じゃないなら、見過ごすわけにはいかない」
その言葉に、ライヘルは静かに頷いた。
「ただし、内々に進めたい。妹からもそう言われている。バーンスタン本人の情報を広げたくない」
「分かった。俺も不用意には動かない」
「まずは、当時の非公式な証言が欲しい。救援の伝達経路、配置変更、同行者の記憶。正式記録ではなく、現場にいた者の記憶だ」
「時間がかかる」
「分かっている」
「だが、やる」
ユアンはそう言い、通路の奥へ視線を向けた。
「エリオットは……本当に腕が動いているのか」
「妹の手紙では」
「そうか」
短い返事だった。
だが、そこには確かな感情があった。
安堵。
後悔。
そして、かすかな希望。
「いつか、会いに行けるか」
「まだ分からない」
「そうか」
ユアンは頷いた。
「なら、その時までに、俺も少しは役に立つ情報を集めておく」
その夜、ライヘルは魔術院の自室へ戻った。
机の上には、ミラからの手紙が置かれている。
ライヘルは新しい紙を取り出した。
すぐに返事を書くべきだろう。
けれど、何をどこまで書くべきか悩んだ。
分かったことはある。
エリオットの試し石反応は、記録されていた。
白刃紋。
守護騎士候補。
要観察。
負傷記録には欠落がある。
瘴気分析だけが抜かれている。
封印指定に、ガレス副団長の関与を示す痕跡がある。
騎士団側の任務変更にも、ガレスとヴィクトルの名が絡む。
これだけあれば、事故ではない可能性が高い。
だが、断定はまだできない。
断定できないことを、遠い村の妹にどう伝えるべきか。
ライヘルは筆を取った。
――ミラへ。
――手紙は読んだ。まず、君が診ている患者について、できるだけ慎重に扱う。魔術院内で不用意に情報を広げるつもりはない。
そこまで書いて、少し止まる。
妹が心配だった。
だが、「すぐに王都へ戻れ」と書くわけにはいかない。
エリオットの治療を止めれば危険かもしれない。
それにミラは、そう書いても戻らないだろう。
ライヘルは続きを書いた。
――確認した限り、エリオット・バーンスタンに関する一部資料には不自然な閲覧制限と欠落がある。試し石についても、通常の儀礼記録とは異なる扱いがされている。
――現時点で詳しい結論は出せないが、君の判断は誤りではない。村での治療記録を続けてほしい。特に、黒い瘴気と白い刃状の反応については、発現条件を細かく記録してくれ。
そこで、ライヘルは筆を止めた。
研究者の文章になっている。
彼は手紙の最後に、もう一文加えた。
――ただし、無理はするな。食事と睡眠を削るな。危険を感じたらすぐ知らせろ。君ひとりで抱えるな。
書いてから、少しだけ苦笑した。
兄らしいことを書いたつもりだった。
その時、扉の外でかすかな足音がした。
ライヘルは顔を上げる。
足音はすぐに遠ざかった。
ただの通行人か。
それとも。
ライヘルは立ち上がり、扉を開けた。
廊下には誰もいない。
だが、石床の上に、小さな黒い紙片が落ちていた。
拾い上げると、そこには何も書かれていない。
しかし、紙片からは微かに瘴気の気配がした。
ライヘルの表情が凍る。
調べていることを、誰かに気づかれたのか。
それとも、こちらを試しているのか。
彼は紙片を慎重に封じ袋へ入れ、魔力灯を消した。
王都の夜は、相変わらず静かだった。
けれどその静けさの奥で、何かが動き始めている。
遠い村でミラが触れたものは、やはりただの伝承ではなかった。
消された記録。
封じられた試し石。
白刃紋。
守護騎士候補。
ライヘルは妹への手紙を封じながら、低く呟いた。
「ミラ。これは、お前が思っているよりずっと危険な話かもしれない」
封蝋が固まる。
その赤い印の上で、魔力灯の残り火が一瞬だけ揺れた。




