消された記録 2
王立魔術院の古文書庫は、建物の北棟にある。
研究棟と違い、人の出入りは少ない。厚い扉の向こうには、王国成立以前の古文書から魔術院創設時の研究記録まで、膨大な資料が眠っている。
その入り口にある資料管理室で、オルガ・フェンネルはまだ仕事をしていた。
机の上には封蝋の欠けた古い書簡、修復中の巻物、貸出記録の束が整然と並んでいる。
オルガは三十代半ばほどの女性で、灰がかった茶色の髪を低くまとめ、薄い眼鏡の奥から鋭い目で書類を見下ろしていた。
その姿は、まるで書庫そのものの門番のようだった。
「コックス君」
扉を叩く前に、オルガが口を開いた。
ライヘルは少しだけ眉を上げる。
「まだ何も言っていませんが」
「その時間に、その顔で来る若手研究員は、たいてい面倒ごとを持っている」
「否定はしません」
「否定できないのなら、入って扉を閉めなさい。廊下に面倒を漏らす趣味はない」
ライヘルは従った。
オルガは書類から目を離さずに言う。
「何を探しているの」
「閲覧制限のかかった資料について確認したいんです」
「部署は」
「王都騎士団関連。二年前の討伐任務と、治療不能症例の記録。それから、騎士叙任儀礼の試し石に関する封印指定」
オルガのペン先が止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げる。
「試し石?」
「はい」
「君が?」
「はい」
「どういう風の吹き回し?」
「妹から相談がありました」
オルガの目が細くなる。
「旅治療師の妹さん?」
「はい」
「患者情報絡み?」
「はい。詳細はまだ言えません」
「言えないのに調べたい、と」
「必要があると判断しました」
オルガはしばらくライヘルを見ていた。
その沈黙は重い。
ライヘルがまだ新米研究員だった頃、資料の扱いを最初に叩き込んだのはオルガだった。
資料は力だ。
記録は刃物だ。
扱いを誤れば、人を傷つける。
彼女はそう言った。
だからこそ、ライヘルはこの人に来た。
オルガは椅子の背にもたれた。
「コックス君。記録がない、というのは二種類ある」
その声は低かった。
「最初から存在しなかったものと、誰かが存在しなかったことにしたものだよ」
ライヘルは黙って頷いた。
「君が見たのはどっちだと思う?」
「後者の可能性があります」
「根拠は」
「目録には痕跡があるのに、本文が出ません。閲覧制限の管理部署も空白です。試し石の記録には封印指定がかかっていますが、指定者情報が表示されません」
「なるほど」
オルガは立ち上がり、壁一面の棚から古い鍵束を取り出した。
「正式な閲覧許可は出さないよ」
「分かっています」
「出せば、誰が見たか記録に残る。記録に残れば、記録を消した人間にも伝わる」
「はい」
「だから、見るのは目録の傷跡だけだ」
ライヘルは少しだけ息を呑んだ。
オルガは机の奥から、魔力を通さない灰色の板を取り出した。古文書庫で使われる、旧式の索引板だ。検索盤より不便だが、その分、操作履歴が残りにくい。
「君は何も見なかった。私は何も見せない」
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い。面倒が本当に面倒だったら、君の首根っこを掴んで放り出す」
オルガは淡々と言って、索引板に鍵を差し込んだ。
古い文字が、薄い光となって浮かび上がる。
エリオット・バーンスタン。
王都騎士団。
叙任記録。
試し石反応。
その行を見た瞬間、ライヘルは息を止めた。
「反応記録が……」
「あるね」
オルガは目を細めた。
「ただし、本文は封印指定。閲覧権限は王宮儀礼局、騎士団上層部、王宮魔術師長級。魔術院側の通常権限では開かない」
「反応の内容は分かりますか」
「目録の端に、旧式の注記が残っている」
オルガは光る文字を拡大した。
そこには、かすれたような文字が浮かんでいた。
――白刃紋、微弱。
――守護騎士候補、要観察。
ライヘルの喉が鳴った。
ミラの手紙に書かれていた「白い刃状の光」。
エリオット本人の記憶にある「試し石の白い筋」。
それと、ここに残る「白刃紋」。
繋がった。
完全にではない。
だが、偶然では片づけられない。
「これは……誰が封印指定を?」
「そこが問題だね」
オルガは別の行を呼び出した。
封印指定者。
承認者。
保管移管履歴。
本来なら名前が並ぶはずの欄が、不自然に空いていた。
ただ一箇所、削り残しのように薄い印がある。
騎士団の紋章。
その横に、かすれた頭文字。
G。
ライヘルは低く呟いた。
「G?騎士団のガレス副団長か……?」
「名前を口にするには早い」
オルガが鋭く言った。
「ただし、その可能性はある」
ガレス・オルブライト。
王都騎士団副団長。
政治派閥と近いと噂される人物。
ライヘルは背筋が冷えるのを感じた。
「負傷記録は?」
「待ちなさい」
オルガはさらに索引板を操作した。
エリオットの治療記録は、確かに存在していた。
肉体損傷。
右腕魔力路焼損。
神経系の異常なし。
魔力路反応不明瞭。
治療術式反応せず。
そこまでは残っている。
だが、瘴気分析の欄だけが欠けていた。
不自然なほど綺麗に。
「削除されていますね」
「削除というより、抜き取られている」
「違いは?」
「削除なら消すだけだ。抜き取りは、別の場所へ移した可能性がある」
「どこへ?」
「それを調べたら、こちらが調べていることを知らせるようなものだよ」
オルガは索引板を閉じた。
「今日はここまで」
「ですが」
「コックス君」
彼女の声が低くなった。
「記録を消した者は、記録を探す者にも気づく。君の妹さんの患者絡みだとしたら、君はなおさら急ぐべきじゃない」
ライヘルは唇を引き結んだ。
焦りがあった。
ミラが遠い村で何かに触れている。
エリオットの腕は動き始めている。
そして王都には、その真実を消そうとした痕跡がある。
だが、オルガの言う通りだ。
ここで不用意に動けば、ミラにもエリオットにも危険が及ぶ。
「分かりました」
ライヘルは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、フェンネル管理官」
「礼はいらない。私は記録の改ざんが嫌いなだけだ」
オルガは鍵束を机へ置いた。
「次に調べるなら、騎士団側だね。魔術院の記録だけでは片手落ちだ」
「心当たりがあります」
「信用できるの?」
「……たぶん」
「“たぶん”で人を巻き込むなら、巻き込み方を選びなさい」
ライヘルは頷いた。
心当たりは一人。
ユアン・クロフォード。
エリオットと同期だった現役騎士。
直接深い付き合いがあるわけではない。だが、ライヘルは一度、魔術院と騎士団の合同任務で彼と顔を合わせたことがある。
口数は少ない。
だが、嘘を軽く扱う男ではなかった。
ライヘルは資料管理室を出る前に、もう一度オルガを振り返った。
「この件、誰にも」
「当然」
オルガは眼鏡の奥から冷たく言った。
「口が軽ければ、私はこの仕事を続けていない」




