消された記録 1
王立魔術院の夜は、静かすぎるほど静かだった。
昼間は研究員や魔術師たちが行き交い、魔力灯の光が絶えず揺れ、廊下には議論の声が響いている。だが、夜も更ければ広い石造りの建物は冷え、古い紙と魔力結晶の匂いだけが残った。
ライヘルは、その静けさの中で妹からの手紙をもう一度読み返していた。
差出人は、ミラ・コックス。
四歳下の妹。
魔術学校を卒業後、王都の治療院には残れず、旅治療師として各地を巡っている。
ライヘルにとってミラは、昔から少し危なっかしい妹だった。
本人はしっかりしている。
治療師としての責任感もある。
旅先から届く手紙も、いつも要点がまとまっていた。
けれど、危なっかしい。
無理をしても、無理をしていると認めない。
困っていても、困っていると書かない。
怪我人や病人を前にすると、自分の食事や睡眠を後回しにする。
だからライヘルは、ミラの手紙には必ず目を通すことにしていた。
だが今回の手紙は、いつもの近況報告とはまるで違った。
エリオット・バーンスタン。
その名が最初に目に入った時、ライヘルは思わず手を止めた。
直接会ったことはない。
しかし、その名は知っている。
王都騎士団の有望株。
田舎出身でありながら、若くして頭角を現した騎士。
二年前、魔物討伐任務中に右腕を損傷し、騎士団を退団した男。
そして、王立魔術院にも一時記録が回ってきた、治療不能症例。
ライヘルは手紙の中ほどを指で押さえる。
――右腕には通常の神経損傷とは異なる魔力路の乱れがあります。
――黒い瘴気状の反応が残っています。
――治療中、黒い瘴気に抵抗する白い刃状の光が見えました。
――エリオットさん本人は、騎士叙任時に試し石へ剣を向けた際、白い筋を見た記憶があるそうです。
試し石。
ライヘルは眉を寄せた。
王都騎士団の叙任儀式に用いられる古い石。
王国の礎へ剣を捧げる、忠誠と覚悟の儀礼。
魔術学校の授業でも、歴史の一部として軽く触れられた記憶がある。
だが、ミラの手紙に書かれている調子は、それをただの儀式とは見ていなかった。
守護騎士。
治癒の女神。
白花の紋。
黒い瘴気。
白い刃。
ライヘルは椅子にもたれ、深く息を吐いた。
「ミラ……」
彼は妹を信じている。
ミラは空想でこんな手紙を書く子ではない。
伝承と症状を混同するほど不用意でもない。
むしろ、確証のないものを断定することを嫌う。
そのミラが、これほど慎重な文面で助けを求めている。
ならば、何かがある。
ライヘルは手紙の最後へ視線を落とした。
――ただし、この件はできるだけ限られた範囲で扱ってください。彼は研究対象ではなく、私の患者です。
その一文を読むたび、胸の奥が少し痛んだ。
研究対象ではなく、患者。
ミラらしい言葉だった。
同時に、ライヘルに向けた釘でもある。
ライヘルは軽く額を押さえた。
「分かっている」
小さく呟く。
「分かっているよ、ミラ」
彼は立ち上がり、机の上に積まれた資料目録を手に取った。
まず確認すべきは三つ。
エリオット・バーンスタンの負傷記録。
魔物討伐任務の瘴気分析記録。
そして、騎士叙任時の試し石に関する記録。
どれも本来なら、若手研究員であるライヘルが自由に閲覧できる類のものではない。
だが、関連資料の目録を見ることくらいはできる。
そのはずだった。
ライヘルは王立魔術院の資料検索盤に魔力を流し、項目を呼び出した。
淡い青白い文字が浮かび上がる。
――エリオット・バーンスタン。
――王都騎士団。
――右腕魔力路損傷。
――討伐任務後治療記録。
項目はあった。
だが、詳細に進もうとした瞬間、文字が消えた。
代わりに現れたのは、短い表示。
――閲覧制限。
ライヘルは眉をひそめる。
治療不能症例の記録に閲覧制限があること自体は珍しくない。
患者の個人情報、騎士団の任務情報、魔術院の研究分類。制限がかかる理由はいくらでもある。
だが、表示がおかしい。
通常なら、制限をかけた部署と管理番号が出る。
しかしここにはそれがない。
空白だった。
ライヘルは別の項目を呼び出した。
――瘴気分析。
――二年前。
――南西辺境討伐任務。
該当項目が三つ浮かび上がる。
そのうち一つに触れた瞬間、今度は表示そのものが乱れた。
――該当資料なし。
「……目録にはあるのに?」
ライヘルは低く呟いた。
目録に残っている。
だが本文がない。
削除されたか、移されたか、封印されたか。
いずれにせよ、普通ではない。
ライヘルは最後に、試し石の項目を検索した。
――試し石。
――騎士叙任儀礼。
――王家由来聖遺物。
検索盤の光が一瞬だけ強くなった。
そして、すぐに消える。
表示された文字は一行だけ。
――封印指定。
ライヘルの背筋に冷たいものが走った。
封印指定。
ただの儀礼道具に、そんな指定がかかるはずがない。
彼は椅子から立ち上がり、資料目録を閉じた。
一人で踏み込むには、危うすぎる。
だが、放置もできない。
ライヘルはしばらく考え、魔力灯を消した。
向かう先は決まっていた。




