表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
207/224

戻り始める湿地 1

 レーンの集落の朝は、いつもより少し静かだった。

 昨夜、ジルの命令痕を切ったことで、集落の者たちは安堵していた。だが、それはすべてが終わったという安堵ではない。

 まだ北の湿地には黒い種が残っている。

 まだジルの首筋には黒い痕が残っている。

 そして、旧水車道の先には、サリア水車村がある。

 ミラは、村長宅の一室で薬草鞄を整えていた。今日、湿地の黒い種を抜き取る。必要なものは、反応針、白石粉、白石布、採取瓶、そしてオリヴァーの封じ筒。

 慎重に確認していると、向かいに座っていたエリオットが右手を見下ろしていた。

 補助具に包まれた右手。

 いつもと同じようで、少し違う。

「エリオットさん?」

 ミラが声をかけると、エリオットは顔を上げた。

「報告しておく」

「はい」

「薬指の感覚が、昨日よりはっきりしている」

 ミラは手を止めた。

「痛みですか?」

「違う。重さに近い。昨日は“そこにある”程度だったが、今は指の位置が少し分かる」

「動かしましたか?」

「動かしていない」

「本当に?」

「本当に」

 真面目な即答だった。

 ミラはほっと息を吐き、すぐに診察の準備をした。

「見ます。今日は湿地の処置がありますから、無理な確認はしません」

「ああ」

 補助具の手首側だけを緩める。ミラは触れずに手をかざした。

 右腕の中には、まだ黒い封じが深く絡んでいる。特に薬指と小指側、そして手首から前腕へかけての流れは細く、黒い棘に何度も塞がれている。

 けれど、確かに変わっていた。

 親指、人差し指、中指へ続いていた白い流れが、薬指の根元へ少しだけ太く伸びている。

「……薬指の白い流れが、昨日より少し太くなっています」

「そうか」

 エリオットの声は静かだった。

 けれど、ほんの少しだけ息が深くなる。

 ミラは記録帳を開いた。

 ――右手薬指。位置感覚の兆候あり。触覚ではない。

 ――白流、薬指根元へ微増。黒い封じは残存。

 ――痛み三。熱は手首から肘。肩上昇なし。

 ――追加確認禁止。湿地処置後、再確認は行わない。

 エリオットが記録を見て、少しだけ眉を寄せた。

「処置後も確認しないのか」

「しません。今日は湿地が優先です。エリオットさんの手も、私の力も、どちらも使いすぎ禁止です」

「正しい」

「はい。正しいです」

 ミラが言うと、エリオットはわずかに口元を緩めた。

 そこへオリヴァーが入ってきた。

「出発できるかな」

「はい」

 ミラは立ち上がる。

 オリヴァーは二人の記録帳をちらりと見て、すぐに察したように言った。

「右手に変化が?」

「薬指の位置感覚が少し戻っています」

「それは大きいね」

 オリヴァーはエリオットへ向き直った。

「ただし、今日は使わないでください」

「分かっています」

 エリオットが答えると、オリヴァーは少し笑った。

「君は本当に、最近うちの家族より聞き分けがいい」

「父さん」

 ミラが抗議しかけると、オリヴァーは穏やかに続けた。

「ミラも、最近はずいぶん学んでいるよ」

「……褒めています?」

「褒めている」

 それでも少し釈然としないミラの隣で、エリオットが真面目に頷いた。

「良い傾向です」

「エリオットさんまで」

 湿地へ向かう前の緊張が、少しだけ和らいだ。

     

 北の湿地へ向かう一行は、前回より多かった。

 先頭はトマ。

 その後ろにミラとオリヴァー。

 ミラの半歩後ろにエリオット。

 ロアンは記録具を抱え、ダリオは最後尾で森の気配を見ている。

 森番も二人ついていた。

 集落側ではハンスとマルタが待機し、何かあれば木笛と犬で合図を回す。

 湿地に近づくと、空気がひやりと重くなった。

 初夏の朝の光はある。けれど、北側の湿地だけは薄い影を帯びている。草の根元に残る黒ずみは、昨日より広がってはいない。

 ミラは胸元の白花に触れた。

「まだ眠っています」

 オリヴァーが封じ筒を持ち直した。

「昨日の孤立が効いているね」

「でも、種は残っています」

「今日は抜きます。ただし、土ごと。黒い種そのものには触れない」

 エリオットが周囲を見渡す。

「トマ、北側の木立は?」

「足跡はない。けど、昨日より鳥が少ない」

「警戒している?」

「分からない。風のせいかもしれない」

 ダリオが後方から言った。

「人の気配は今のところない。だが、油断するな」

 エリオットは頷いた。

「ミラ、始める前に確認だ。流れが大きすぎると思ったら止める」

「はい」

「黒い種が動いたら?」

「手を引きます」

「オリヴァー殿の指示があったら?」

「従います」

「良い」

「本当に助手というより監督ですね」

 ミラが小さく言うと、エリオットは真面目に返した。

「必要なので」

 トマがぼそりと呟いた。

「このやり取り、前より聞き慣れてきたな」

 ロアンが笑いをこらえ、オリヴァーは少しだけ肩を揺らした。

     


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ