戻り始める湿地 1
レーンの集落の朝は、いつもより少し静かだった。
昨夜、ジルの命令痕を切ったことで、集落の者たちは安堵していた。だが、それはすべてが終わったという安堵ではない。
まだ北の湿地には黒い種が残っている。
まだジルの首筋には黒い痕が残っている。
そして、旧水車道の先には、サリア水車村がある。
ミラは、村長宅の一室で薬草鞄を整えていた。今日、湿地の黒い種を抜き取る。必要なものは、反応針、白石粉、白石布、採取瓶、そしてオリヴァーの封じ筒。
慎重に確認していると、向かいに座っていたエリオットが右手を見下ろしていた。
補助具に包まれた右手。
いつもと同じようで、少し違う。
「エリオットさん?」
ミラが声をかけると、エリオットは顔を上げた。
「報告しておく」
「はい」
「薬指の感覚が、昨日よりはっきりしている」
ミラは手を止めた。
「痛みですか?」
「違う。重さに近い。昨日は“そこにある”程度だったが、今は指の位置が少し分かる」
「動かしましたか?」
「動かしていない」
「本当に?」
「本当に」
真面目な即答だった。
ミラはほっと息を吐き、すぐに診察の準備をした。
「見ます。今日は湿地の処置がありますから、無理な確認はしません」
「ああ」
補助具の手首側だけを緩める。ミラは触れずに手をかざした。
右腕の中には、まだ黒い封じが深く絡んでいる。特に薬指と小指側、そして手首から前腕へかけての流れは細く、黒い棘に何度も塞がれている。
けれど、確かに変わっていた。
親指、人差し指、中指へ続いていた白い流れが、薬指の根元へ少しだけ太く伸びている。
「……薬指の白い流れが、昨日より少し太くなっています」
「そうか」
エリオットの声は静かだった。
けれど、ほんの少しだけ息が深くなる。
ミラは記録帳を開いた。
――右手薬指。位置感覚の兆候あり。触覚ではない。
――白流、薬指根元へ微増。黒い封じは残存。
――痛み三。熱は手首から肘。肩上昇なし。
――追加確認禁止。湿地処置後、再確認は行わない。
エリオットが記録を見て、少しだけ眉を寄せた。
「処置後も確認しないのか」
「しません。今日は湿地が優先です。エリオットさんの手も、私の力も、どちらも使いすぎ禁止です」
「正しい」
「はい。正しいです」
ミラが言うと、エリオットはわずかに口元を緩めた。
そこへオリヴァーが入ってきた。
「出発できるかな」
「はい」
ミラは立ち上がる。
オリヴァーは二人の記録帳をちらりと見て、すぐに察したように言った。
「右手に変化が?」
「薬指の位置感覚が少し戻っています」
「それは大きいね」
オリヴァーはエリオットへ向き直った。
「ただし、今日は使わないでください」
「分かっています」
エリオットが答えると、オリヴァーは少し笑った。
「君は本当に、最近うちの家族より聞き分けがいい」
「父さん」
ミラが抗議しかけると、オリヴァーは穏やかに続けた。
「ミラも、最近はずいぶん学んでいるよ」
「……褒めています?」
「褒めている」
それでも少し釈然としないミラの隣で、エリオットが真面目に頷いた。
「良い傾向です」
「エリオットさんまで」
湿地へ向かう前の緊張が、少しだけ和らいだ。
北の湿地へ向かう一行は、前回より多かった。
先頭はトマ。
その後ろにミラとオリヴァー。
ミラの半歩後ろにエリオット。
ロアンは記録具を抱え、ダリオは最後尾で森の気配を見ている。
森番も二人ついていた。
集落側ではハンスとマルタが待機し、何かあれば木笛と犬で合図を回す。
湿地に近づくと、空気がひやりと重くなった。
初夏の朝の光はある。けれど、北側の湿地だけは薄い影を帯びている。草の根元に残る黒ずみは、昨日より広がってはいない。
ミラは胸元の白花に触れた。
「まだ眠っています」
オリヴァーが封じ筒を持ち直した。
「昨日の孤立が効いているね」
「でも、種は残っています」
「今日は抜きます。ただし、土ごと。黒い種そのものには触れない」
エリオットが周囲を見渡す。
「トマ、北側の木立は?」
「足跡はない。けど、昨日より鳥が少ない」
「警戒している?」
「分からない。風のせいかもしれない」
ダリオが後方から言った。
「人の気配は今のところない。だが、油断するな」
エリオットは頷いた。
「ミラ、始める前に確認だ。流れが大きすぎると思ったら止める」
「はい」
「黒い種が動いたら?」
「手を引きます」
「オリヴァー殿の指示があったら?」
「従います」
「良い」
「本当に助手というより監督ですね」
ミラが小さく言うと、エリオットは真面目に返した。
「必要なので」
トマがぼそりと呟いた。
「このやり取り、前より聞き慣れてきたな」
ロアンが笑いをこらえ、オリヴァーは少しだけ肩を揺らした。




