命令の糸を切る 3
しばらくして、ジルは水を飲めるほどには落ち着いた。
首筋の黒い痣はまだ残っている。だが、触れても喉が締まることはなかった。
ミラは慎重に尋ねた。
「今なら、少し話せますか?」
ジルは顔を上げる。
怖さは残っている。
けれど、昨日までのように言葉を発するたび死を覚悟する必要はなくなった。
「……全部は無理だ。俺も知らねえことが多い」
「分かっています」
「仕事を受けたのは、旧水車道の途中だ。古い粉挽き小屋の裏。今は使われてねえ場所だ」
ハンスが顔を険しくした。
「サリアへ向かう古道だな」
「ああ。そこで男に会った。顔は……やっぱりぼんやりしてる。思い出そうとすると頭が痛む。でも、黒い蜜蝋の匂いがした」
「報酬は銅貨三枚」
「前金だ。成功したら銀貨を出すって言われた」
ジルは苦く笑った。
「高すぎると思ったんだ。思ったのに、受けた」
誰も慰めなかった。
それは彼自身が背負うべき罪だった。
だが、もう一つ、彼にはできることがある。
「命令痕が外れたら、話を流すって言ってましたね」
ミラが言うと、ジルは頷いた。
「ああ。裏仕事を受ける連中に言う。冷たい銅貨、黒い糸、黒い蜜蝋、薬草の包み。そういう仕事は受けるなって。報酬が良くても、最後は命を取られるって」
エリオットが静かに言った。
「それは、君自身のためでもあるな」
「そうだよ。俺は善人じゃねえ」
「それでいい」
エリオットは短く答えた。
「善意でなくても、同じ仕事を受ける者が減れば意味がある」
ジルは少しだけ目を伏せた。
「……あんたら、変だな」
ミラは苦笑した。
「よく言われます」
命令痕の処置が終わると、オリヴァーはすぐに媒介を小箱へ収めた。
銅貨。
木札。
黒糸の灰。
根入り包み。
それぞれを分け、封印する。
「これはリンドルへ持ち帰る。だが、その前に湿地の種を見る」
ミラが顔を上げる。
「今日ですか?」
「今日見て、抜くのは明日でもいい。ジルの命令痕と同系統なら、湿地の種も媒介の一部として働いている可能性がある」
エリオットが言った。
「旧水車道との繋がりも確認できますか」
「おそらく」
オリヴァーは遮断輪を見た。
「今、黒糸を切った時、反応が一瞬だけ西へ引いた。方角は、旧水車道に近い」
ハンスが低く唸る。
「やはり、サリアか」
「まだ断定できません」
オリヴァーは言った。
「だが、命令痕の起点か、同じ媒介を作った場所が、旧水車道の先にある可能性は高い」
ミラは胸元の白花を握った。
次の村。
サリア水車村。
水と白花の伝承が残るという村。
そこに、黒い媒介の起点もあるかもしれない。
オリヴァーはミラを見た。
「私はサリアまで同行する」
「父さんが?」
「ジルの媒介の出どころを調べる必要がある。水脈型の黒い術式があるなら、職人の道具が必要だ。それに、君の白花が水に強く反応する可能性もある」
「でも、リンドルの整理は」
「魔道具屋に任せられるものは任せてきた。危険物の本体は地下倉庫に封じてある。今は、現地で見なければならないことがある」
父親としてではなく、職人としての声だった。
それでも、ミラは安心した。
オリヴァーが来てくれる。
それは、心強かった。
夕方、湿地へ向かう準備が始まった。
今日は下見だけ。
黒い種を抜くのは、ジルの容態を見てから明朝にする。
トマが案内し、ダリオが後方を見る。
エリオットはミラの横。
オリヴァーは封じ筒を持ち、ロアンは記録具を抱えている。
初夏の森は、昨日より少し明るく見えた。
黒い種はまだ残っている。
けれど、命令の糸は一本切れた。
セヴランの術式が、初めて外側から読まれ、断たれた。
遠く、黒い研究室で、セヴラン・ノックスは水晶盤の前で静かに立っていた。
ジルの命令痕を示していた小さな黒点が、白く濁っている。
消えてはいない。
だが、もう命令は通らない。
研究員が震える声で言った。
「先生……簡易印が、失効しました」
セヴランはしばらく黙っていた。
ほんのわずかな沈黙。
やがて、彼は笑った。
「……外側の糸を切りましたか」
声は穏やかだった。
しかし、その指先は水晶盤の縁を強く押さえている。
「治療師だけではない。職人も、よく見ていますね」
「対処しますか」
「まだです」
セヴランは盤面に浮かぶ白い反応を見つめた。
白花。
剣の枝。
職人の白石。
そして、旧水車道へ伸びる黒い残り香。
「彼らはサリアへ向かうでしょう」
その声には、楽しげな響きが戻っていた。
だが、その奥には確かに、薄い苛立ちがあった。
「なら、水がどちらへ流れるのか、見届けましょう」
水晶盤の黒い面に、白い小さな光が揺れた。
レーンの集落で命令の糸は切れた。
だが、その先にある水車村では、また別の糸が待っている。




