命令の糸を切る 1
オリヴァーたちがレーンの集落へ到着したのは、翌日の昼前だった。
初夏の陽射しは強く、街道から来た荷馬車の車輪には乾いた赤土がこびりついている。けれど森沿いの集落へ入ると、空気は湿り、薬草と苔の匂いが濃くなった。
「父さん!」
ミラは村長宅の前で待っていた。
荷馬車から降りたオリヴァーは、娘の顔を見るなり、まず怪我がないか確かめるように目を走らせた。
「ミラ。無事だね」
「はい。私は大丈夫です」
「その言葉は、最近信用できないと聞いている」
オリヴァーがそう言うと、ミラは少しだけ視線を泳がせた。
隣にいたエリオットが静かに言う。
「大きな消耗はありません。昨日から治療数も制限しています」
「ありがとう、エリオット君」
オリヴァーは真っ直ぐにエリオットへ頭を下げた。
エリオットが少し驚いたように背筋を伸ばす。
「俺は、できる範囲で止めただけです」
「その“止める”が一番難しいんだ」
オリヴァーの声は穏やかだった。
「ジルという男を無理に尋問しなかったこと。ミラを一人で動かさなかったこと。集落の人たちと手順を作ったこと。どれも正しかった」
エリオットは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとうございます」
ミラは二人を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
父が、エリオットを信頼している。
それが言葉だけでなく、態度から伝わってくる。
納屋の奥で、ジルはオリヴァーを見るなり身構えた。
「今度は何されるんだ」
その声には怯えが混じっていた。
昨夜から首筋の命令痕は落ち着いている。だが、白石布の下にある黒い印は、まだ消えていない。
オリヴァーは彼の前にしゃがんだ。
「君を裁くために来たんじゃない。首に残された仕掛けを外しに来た」
「仕掛け……」
「君が触った銅貨や黒糸を通して、命令の鉤が残されている。ミラがそれを喉へ伸びないよう孤立させた。今から私は、外側へ繋がる糸を切る」
ジルは青ざめた。
「失敗したら?」
「苦しい思いをする。だから失敗しないように準備してきた」
「絶対じゃないんだな」
「絶対と言う職人は信用しない方がいい」
ジルは乾いた笑いを漏らした。
「正直だな、あんた」
「命がかかっているからね」
ミラは少し離れた位置で、白花のペンダントを握っていた。
エリオットは入口側。
ダリオは外。
トマは納屋の裏。
マルタは薬草茶と呼吸を整える布を持っている。
ロアンはオリヴァーの隣で道具を並べていた。
誰も一人で背負っていない。
そのことが、ミラを支えていた。
作業は慎重に始まった。
まず、ジルの腰袋から取り出された媒介候補――冷えた銅貨、黒蜜跡のある木札、黒糸、根入り包み――を白石粉の輪の中に置く。
オリヴァーは遮断輪を手に取った。
「ミラ、まずジル本人の流れを見て。命令痕そのものを剥がそうとしない。白い流れが喉へ曲げられないよう、外側から支えるだけでいい」
「はい」
「エリオット君、ジルが暴れても押さえつけすぎないで。喉が詰まる」
「分かりました」
「マルタさん、呼吸が乱れたら薬草布を」
「任せな」
「ロアン、銅貨が反応したら一番札。木札なら二番札。黒糸なら三番札」
「はい」
ジルが引きつった声で言った。
「……なんか、本格的だな」
エリオットが淡々と返す。
「本格的でなければ困るだろう」
「そりゃそうだ」
ジルは笑おうとして、笑えなかった。
ミラは深く息を吸った。
白花の光を細く灯す。
ジルの首筋に見える黒い命令痕は、昨日より静かだった。けれど、その奥にはまだ黒い鉤がある。喉へ伸びる道を覚えてしまったように、細く暗い筋が残っている。
その周りに、ジル自身の白い流れがあった。
弱く、怯えるような流れ。
ミラはそれをそっと支えた。
「見えます。白い流れは残っています。黒い痕は、外から引っかかっています」
オリヴァーが頷く。
「始める」
遮断輪が、ジルの首筋から少し離れた位置に置かれた。
直接触れない。
けれど、輪の刻線が淡く光る。
白石粉の輪の中で、冷えた銅貨がかすかに震えた。
「銅貨、反応」
ロアンが言う。
「一番札」
オリヴァーが短く指示する。
ロアンが白石札を銅貨の上へ置いた瞬間、ジルの首筋の黒い印がぴくりと動いた。
「ぐっ……!」
ジルが喉を押さえかける。
「手を下ろせ」
エリオットの声が飛んだ。
ジルは震えながら手を止める。
ミラは白い流れを強くしすぎないよう、細く保った。
「喉へ伸びようとしています。でも、まだ止められます」
「切る」
オリヴァーが遮断輪の向きを変えた。
細い黒い筋が、ジルの首筋から銅貨へ向かっているのが、ミラにも見えた。
糸。
命令の糸。
それを、オリヴァーの白石輪が静かに挟み込む。
ぱちん、と小さな音がした。
銅貨の冷たい反応が消える。
ジルが荒く息を吐いた。
「一つ切れた」
オリヴァーの声は落ち着いていた。
「次」




