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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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動いた指先

 誰も、すぐには声を出せなかった。

 広場の端に散らばった薪。傾いた荷車。集まった村人たち。夕暮れ前の淡い光の中で、ミラの両手だけが、白く柔らかな光を宿していた。

 その光に包まれていたのは、エリオット・バーンスタンの右手だった。

 鍛えられた大きな手。けれど今は、力なく垂れることしかできなくなった手。

 その指先が、たしかに動いた。

 ほんのわずかに。

 誰かが見間違えたと言えば、それで済んでしまいそうなほど小さく。

 だが、ミラは見た。

 彼の人差し指が、かすかに曲がったのを。

「……今」

 ミラの声は、自分でも驚くほど小さかった。

 エリオットは自分の右手を凝視していた。灰青色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。唇がわずかに開いたまま、言葉にならない息だけが漏れた。

 村人たちの間に、遅れてざわめきが広がる。

「動いた……?」

「エリオットの手が?」

「今、確かに……」

 少年が、ぽかんと口を開けてエリオットを見つめていた。

「エリオット兄ちゃん、今、指……」

「違う」

 低い声が、それを遮った。

 エリオットは右手を引こうとした。けれど、ミラの手がまだそっと支えていたため、途中で動きを止める。

「偶然だ」

 その声は硬かった。

 まるで自分に言い聞かせているようだった。

「今のは、痙攣か何かだ。治ったわけじゃない」

「はい」

 ミラは静かに頷いた。

 その返事に、エリオットの眉がわずかに動く。

「……否定しないのか」

「治ったわけではありません。少なくとも、今の一度で回復したとは言えません」

 ミラは彼の右手を両手で支えたまま、慎重に親指の付け根へ触れた。

「ですが、反応があったのは事実です」

 彼の手は大きく、冷えていた。

 指先に力はない。だが先ほど触れた時、ミラには確かに見えた。

 黒い靄に絡め取られた、細い光の筋。

 神経とは違う。血管とも違う。

 魔術学校で習った治癒理論の中にも、似た図はあった。魔力路。身体の中を巡り、魔法を発動させるための見えない道。

 けれど、ミラが見たものは教本の図よりずっと生々しかった。

 焼けた蔓のように断ち切れ、ところどころが歪み、戻る場所を見失っている。

 そして、その奥にまだ残っていた。

 わずかに脈打つ、消えていない光が。

「……離せ」

 エリオットが言った。

 ミラはすぐに手を離した。

「失礼しました」

 光が消える。

 エリオットは右手を自分の胸元へ引き寄せようとしたが、思うように動かせず、結局左手で右腕を支えた。

 その仕草は慣れていた。

 何度も何度も、そうやって動かない腕を扱ってきた人の動きだった。

 ミラは胸の奥が少し痛くなるのを感じた。

 だが、同情を顔に出してはいけない。

 それは患者のためではなく、自分の感傷のためのものだ。

 ミラは深く息を吸い、治療師としての声を取り戻した。

「エリオットさん。改めて診察させてください」

「必要ない」

「必要があります」

「ないと言っている」

「先ほど右手に反応がありました。痛みや痺れに変化が出ているかもしれません。確認しなければ、悪化した時に対処が遅れます」

 エリオットは鋭くミラを見た。

「君は、誰にでもそんなふうに食い下がるのか」

「患者さんには」

「俺は患者じゃない」

「では、荷車のそばで倒れていた、診察が必要な方です」

 広場にいた誰かが、小さく吹き出した。

 エリオットの目がそちらへ向き、村人たちは慌てて口をつぐむ。

 ミラは気にせず続けた。

「無理に治療はしません。ただ状態を確認したいんです。今ここで大勢に囲まれているのが嫌なら、場所を変えましょう」

 エリオットは沈黙した。

 その間も、村人たちの視線は彼の右手に集まっている。期待と驚きと、少しの恐れ。善意ではある。けれど今のエリオットにとっては、きっと針のように刺さるものだ。

 やがて彼は、低く息を吐いた。

「……勝手にしろ」

「ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない」

「診察を許可していただいたので」

 エリオットは少しだけ顔を歪めた。

 怒っているのか、呆れているのか、ミラには分からなかった。

 村長が慌てて近づいてきた。

「う、うちの空き部屋を使うといい。エリオット、立てるか?」

「立てます」

 エリオットは左手で膝を押し、ゆっくりと立ち上がった。

 背が高い。

 ミラが座っていた時よりも、立ち上がった彼はさらに大きく見えた。広い肩、厚い胸板、鍛えられた身体。村の作業着を着ていても、かつて騎士か何かだったことは隠しようがない。

 けれど右腕だけが、彼の身体から取り残されたように不自然だった。

 ミラは自分の鞄を持ち直し、彼の後に続いた。

 村長の家の空き部屋は、広場に面した小さな部屋だった。木の窓から夕方の光が差し込み、床板の上に細長い影を落としている。

 エリオットは椅子に腰を下ろし、右腕を膝の上に置いた。

 ミラは向かいに座る。

 近い。

 彼が大きいせいで、普通に向かい合っているだけなのに、妙に距離が詰まって感じられた。

「袖をまくってもらえますか」

 エリオットは左手で右袖をまくろうとした。だが布が引っかかり、うまく上がらない。

 しばらく無言で格闘したあと、彼は苛立ったように眉を寄せた。

「……くそ」

「私が」

「いい」

「治療のためです」

「……」

 エリオットは顔を背けた。

 許可と判断して、ミラはそっと彼の右袖に手をかけた。

 布を傷跡に擦らないよう、ゆっくりと肘のあたりまで上げる。

 露わになった前腕には、古い傷が走っていた。裂けたような線。焼けたような痕。治癒魔法で塞がれた跡だろうが、どこか歪んでいる。

 手首には黒い紐で編まれた護符が巻かれていた。

 小さな金属片には、白い花にも太陽にも見える紋様が刻まれている。

「この護符は?」

「村の祠のものだ」

 エリオットの声は硬い。

「母が持ってきた。腕を怪我した後に」

「治癒の女神の祠ですか」

「そうらしい」

「そうらしい?」

「昔からあるだけだ。誰も本気で信じちゃいない。年に一度、花を供えるくらいだ」

 ミラは護符を見つめた。

「でも、あなたは祈ったんですね」

 エリオットが黙った。

 言ってから、踏み込みすぎたかもしれないと思った。

 けれど取り消す前に、彼が低く答えた。

「……祈った」

 その一言は、とても重かった。

「何度も」

 エリオットは自分の右手を見下ろした。

「剣を握らせてくれと。せめて、農具くらいまともに持たせてくれと。何でもいいから、この腕に意味を残してくれと」

「剣を?」

「俺は王都の騎士団にいた。だが魔物にやられて右腕を負傷して故郷のこの村に帰ってきた」

 ミラは息を止めた。

 彼の声に涙はない。

 荒げてもいない。

 けれど、それがかえって痛かった。

「祈ったが、何も起きなかった」

 エリオットは薄く笑った。

 笑った、というより、笑おうとして失敗したような顔だった。

「女神がいるなら、俺は随分嫌われているらしい」

「そうは思いません」

 ミラは反射的に言っていた。

 エリオットが彼女を見る。

「この腕は、まだ残っています」

「見れば分かる」

「そうではなくて」

 ミラは慎重に言葉を選んだ。

「この傷は、普通の後遺症とは違う気がします。さっき触れた時、魔力の流れのようなものが乱れているのを感じました。もしそれが魔物の瘴気によるものなら、本来はもっと悪化していた可能性があります」

「何が言いたい」

「この護符が、進行を抑えていたのかもしれません」

 エリオットの目がわずかに揺れた。

「祈りは、何も起こさなかったわけではないのかもしれません」

 部屋の中が静まり返る。

 窓の外で、風が木の葉を揺らした。

 エリオットはしばらく何も言わなかった。

 その沈黙の中で、彼の指がかすかに動いた。意識したものではない。反射のような、小さな震えだった。

 ミラは見逃さなかった。

「今、感覚はありますか?」

「……少し」

「どんな感じですか」

「熱い。いや、痛い。内側を引かれるような……」

「今までは?」

「何もなかった。痺れているだけで、痛みも熱も遠かった」

 ミラは頷いた。

「痛みが戻るのは、悪いこととは限りません。感覚が戻り始めている可能性があります」

「都合のいいことを言う」

「都合がいいかどうかは、経過を見ないと分かりません」

「治るとでも?」

「まだ分かりません」

「なら期待させるな」

 その声には、怒りが滲んでいた。

 けれどミラは、なぜか怖くなかった。

 彼はミラに怒っているのではない。

 期待してしまいそうな自分に怒っているのだ。

「期待させるつもりはありません」

 ミラは静かに言った。

「でも、可能性があるなら見逃したくありません」

 エリオットは唇を引き結んだ。

「……君は変わっている」

「よく言われます」

「よく言われるのか」

「はい」

 少しだけ、空気が緩んだ。

 ミラは鞄から小型の魔力結晶を取り出した。透明な結晶を右腕のそばに置き、簡単な確認用の術式を組む。

 淡い光が結晶の中を巡った。

 普段なら、魔力の流れが乱れている箇所が薄い色で浮かび上がる。だがエリオットの右腕に近づけた瞬間、結晶の光はひどく歪んだ。

「……これは」

 ミラは眉をひそめた。

 黒い筋のような影が、結晶の中に映っている。まるで煙が閉じ込められているようだった。

 エリオットもそれを見た。

「それは何だ」

「分かりません。ただ、普通の神経損傷や魔力路の断裂とは違います」

「王都の治療師は、肉体の傷は塞がっていると言った」

「肉体はそうかもしれません。でも、魔力路の奥に何かが残っている」

 ミラは結晶をそっと下ろした。

 その瞬間、胸元の白い花のペンダントが淡く光った。

 同時に、エリオットの手首の護符も。

 ふたつの光は呼応するように、ほんの短く瞬いた。

 エリオットが目を細める。

「まただ」

「はい」

「君のそれは何だ」

 ミラは胸元のペンダントに触れた。

「母から譲られたものです。詳しいことは知りません。ただ、ずっと身につけていて……」

「祠の紋に似ている」

「え?」

 エリオットは護符の金属片を指した。

 白い花のような紋様。

 ミラは自分のペンダントと見比べた。

 完全に同じではない。けれど、花弁の数、中心の形、外側へ広がる線が、たしかに似ていた。

「……本当ですね」

 ミラの背筋に、小さな震えが走った。

 偶然だろうか。

 旅の治療師として各地を回ってきた。祠や古い信仰もいくつも見てきた。だが、自分のペンダントが何かに反応したことなど一度もなかった。

 この村に来てからだ。

 村の入口の供え花。

 女神の祠。

 エリオットの護符。

 そして、彼の右腕。

 すべてが、ひとつの見えない糸で繋がっているような気がした。

「ミラ」

 名を呼ばれて、ミラは顔を上げた。

 エリオットが彼女を見ていた。

 初めて名前を呼ばれたことに気づき、ミラはわずかに瞬きをする。

「はい」

「君は、俺の腕を治せるのか」

 まっすぐな問いだった。

 ミラはすぐには答えられなかった。

 治せる、と言いたかった。

 でも、言えない。

 患者に希望を渡すのは簡単だ。

 それを裏切った時、深く傷つけることも。

 ミラは両手を膝の上で握った。

「今の私には、治せると断言できません」

 エリオットの瞳が静かに沈む。

 それでもミラは続けた。

「ですが、診ることはできます。変化を追うこともできます。痛みの種類を確かめて、魔力の乱れを探って、必要なら薬やリハビリも組み合わせます」

「……」

「王都の治療師ができなかったことを、私ができるとは言いません。でも」

 ミラは彼の右手を見た。

「この腕は、もう終わりだとは思えません」

 エリオットの喉がかすかに動いた。

「私は、そう思います」

 また沈黙が落ちた。

 今度の沈黙は、先ほどよりずっと長かった。

 エリオットは窓の外へ視線を向けた。沈みかけた陽が、彼の横顔を照らしている。硬く整った顔立ち。諦めを貼りつけたような表情。その奥に、触れれば崩れてしまいそうな何かがある。

 やがて彼は、ゆっくりと右手を見下ろした。

 動かないはずの指先。

 けれど先ほど、確かに動いた指先。

「二年だ」

 エリオットは呟いた。

「二年、この腕は何も返さなかった」

 ミラは黙って聞いていた。

「木剣を握ろうとしても落とす。農具もまともに持てない。皿を運べば割る。子どもに心配される。老人にまで気を遣われる」

 彼の声は淡々としていた。

「騎士だった頃の俺を知っている人間ほど、俺を見なくなる。知らない人間は、可哀想なものを見る目をする」

 ミラの胸が締めつけられる。

「俺はもう、期待されるのが嫌だった」

 エリオットは右手を握ろうとした。

 指はほとんど動かなかった。けれど、薬指がかすかに震えた。

「だが」

 その声が、わずかに掠れる。

「まだ少しでも可能性があるなら」

 彼はミラを見た。

 灰青色の瞳の奥に、消えかけていた火が灯っていた。

「俺は、もう一度剣を握りたい」

 ミラは息を呑んだ。

 それは、祈りのような言葉だった。

 女神へ向けたものではない。

 村人へ向けたものでもない。

 自分自身に、ようやく許した願いだった。

 ミラは静かに頷いた。

「では、明日から治療と確認を続けましょう」

「明日から?」

「今日はこれ以上触らない方がいいです。反応が出たばかりなので、無理に魔力を流すと悪化する可能性があります。今夜は温めすぎず、冷やしすぎず、右手を締めつけないようにしてください。痛みが強くなったら、すぐに呼んでください」

 エリオットは少し呆れたように彼女を見た。

「急に現実的だな」

「治療師なので」

「……そうか」

 ほんのわずかに、彼の口元が緩んだ。

 笑ったと言うにはあまりにも小さい。

 だがミラは、それを見て少しだけ安心した。

 鞄から清潔な布を取り出し、右腕の傷跡に触れないよう緩く巻く。固定ではなく、保護のための布だ。

 最後に結び目を作ると、エリオットがぼそりと言った。

「手慣れているな」

「旅先では、包帯を巻かない日はほとんどありませんから」

「王都の治療師とは違う」

 その言葉に、ミラの指が一瞬止まった。

「……王都の治療師には、なれませんでしたから」

 言ってから、少しだけ後悔した。

 余計なことを言ったかもしれない。

 だがエリオットは、彼女の顔をじっと見ていた。

「なれなかった?」

「はい。王都の治療院の枠は限られていて、私より優秀な人たちが選ばれました。私は治癒魔法しか取り柄がありませんでしたし、その治癒魔法も王都では地味な方だったので」

「地味」

 エリオットは自分の右手を見下ろした。

「その地味な魔法で、俺の指は動いた」

 ミラは返す言葉を失った。

 エリオットはそれ以上言わなかった。

 けれど、その一言は、ミラの胸に静かに残った。

 診察を終える頃には、外は茜色に染まっていた。

 部屋を出ると、村長と数人の村人が遠巻きに待っていた。誰も大声では尋ねてこない。エリオットの表情を見て、声をかけるのをためらっているようだった。

 ミラは村長にだけ簡単に説明した。

「今日は様子を見ます。明日、改めて診察します」

「治るのかい?」

 村長の声は小さい。

 ミラは首を横に振らなかった。

 けれど、頷きもしなかった。

「まだ分かりません。でも、変化はありました」

「そうか……」

 村長は泣きそうな顔で笑った。

 その横を、エリオットが無言で通り過ぎる。

 広場の端で、彼はふと足を止めた。

 村外れの木々の向こうに、治癒の女神の祠が見える。

 白い花が供えられた、小さな古い祠。

 エリオットはしばらくそれを見つめていた。

 そして、右手首の護符に左手で触れた。

「……見捨てられていたわけじゃないのか」

 その声は、ミラに聞かせるつもりのない独り言だったのかもしれない。

 けれど、ミラには聞こえた。

 だから彼女は、少しだけ考えてから言った。

「少なくとも、あなたの腕は今日まで残っていました」

 エリオットが振り向く。

「それは、あなたが諦めきらなかったからだと思います」

「……君は、簡単に言う」

「簡単ではありません。だから、明日から少しずつです」

 ミラは鞄の紐を握り直した。

「動いたのが一度なら、次は二度を目指しましょう」

 エリオットは黙って彼女を見た。

 それから、ほんの少しだけ視線を逸らした。

「……しつこい治療師だ」

「よく言われます」

「それはもう聞いた」

 小さな会話だった。

 けれど、広場に残っていた空気が、少しだけ柔らかくなった。

 夕風が吹き、白い花の花弁が一枚、祠の方から舞ってくる。

 ミラの胸元で、白い花のペンダントがかすかに温もりを帯びた。

 エリオットの手首の護符も、同じように淡く光る。

 二人はまだ、その意味を知らない。

 ただ、止まっていたものが動き始めたことだけは、確かだった。



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