旅する治療師と、傷ついた騎士
王都から遠く離れた山裾の村に、ひとりの治療師がやってきた。
馬車を降りたミラ・コックスは、肩にかけた革鞄の紐を掛け直し、目の前に広がる景色を見つめた。
なだらかな丘陵。石垣で区切られた畑。風に揺れる麦の穂。遠くには青みがかった山並みが連なり、村の家々はその谷間に寄り添うように建っている。
王都の尖塔や石畳とはまるで違う。ここでは時間の流れまでゆるやかに感じられた。
けれど、ミラは知っている。
静かな村ほど、医者も治療師も足りていない。
怪我をしても、熱を出しても、魔物に襲われても、すぐに手当てを受けられるとは限らない。
だから自分のような旅治療師が呼ばれるのだ。
「ここが、今回の村……」
ミラは小さく息を吐いた。
生成りのブラウスの袖口を直し、セージグリーンのベストについた埃を軽く払う。腰に下げた小瓶が、歩くたびに小さく触れ合って鳴った。
革鞄の中には、包帯、軟膏、薬草、ポーション、小型の魔力結晶、応急用の魔法陣札。どれも高価なものではない。けれど、旅をしながら何度も人の命を繋いできた、ミラにとっては何より頼りになる道具たちだった。
王都にいた頃、ミラの魔法は目立たなかった。
攻撃魔法は苦手。結界魔法も平均程度。大規模な治癒術式も扱えない。魔術学校を卒業したものの、王都の治療院に入る枠は、彼女より優秀な生徒たちに埋められていた。
だから、ミラは王都を出た。
それから二年。村から村へ、町から町へ。時には冒険者の一団に同行し、時には旅芸人や商隊と共に道を行き、怪我人や病人を診てきた。
派手な魔法は使えなくても、痛む場所を見つけることはできる。
震える手を握ることはできる。
熱に浮かされた子どもの額に、濡れ布を乗せることはできる。
それだけで救える命が、確かにあった。
村の入り口には、年季の入った木の看板が立っていた。文字は風雨に晒されて薄くなっていたが、かろうじて村名は読める。
その下に、小さな白い花が供えられていた。
「花……?」
ミラは思わず足を止めた。
白い花は、村道の端にぽつんと置かれている。誰かが落としたというより、意図して供えたように見えた。
花弁は清らかで、朝露を含んだように淡く光っている。
白花の治療師。
誰かがミラをそう呼んだ。ミラの治療魔法が白い花が咲くような光を放つから。
ミラは胸元に手をやった。
ブラウスの襟元に隠れるようにして、小さな白い花のペンダントが揺れている。亡くなった母から譲られたものだ。古いものだが、不思議と傷まない。
なぜか、その供え花を見た瞬間、胸元のペンダントがほんの少しだけ温かくなった気がした。
「……気のせい、かな」
ミラはペンダントを指先で押さえ、首を傾げた。
その時、村の奥から慌ただしい声が聞こえた。
「治療師さんかい?」
振り向くと、丸顔の中年女性が小走りでこちらへ向かってきていた。エプロンの端を握りしめ、額には汗を浮かべている。
「はい。ミラ・コックスです。こちらで数日、診療のお手伝いをすることになっております」
「ああ、よかった! 待ってたんだよ。村長のところへ案内するから、こっちへおいで」
「はい。よろしくお願いします」
ミラは軽く頭を下げ、女性の後を追った。
村は小さいが、手入れは行き届いていた。畑の脇には薬草らしき草も植えられている。けれど、道行く人々の表情には、どこか疲れが滲んでいた。
「最近、怪我人が多いんですか?」
ミラが尋ねると、女性は困ったように眉を下げた。
「春先から森に魔物が出るようになってね。騎士団に討伐依頼は出してるんだけど、王都からここまでは少し距離があるだろう? 冒険者もたまに来るけど、いつもいるわけじゃない。畑仕事中の怪我や腰痛も多いし、子どもはすぐ熱を出すし……村の薬師だけじゃ追いつかなくてね」
「分かりました。まずは重い症状の方から診ます」
「助かるよ。若いのに、しっかりしてるんだねえ」
ミラは曖昧に微笑んだ。
若いのに、という言葉には慣れている。
しっかりしている、という言葉にも。
でも、優秀だと言われたことは、ほとんどなかった。
村の広場に差しかかった時、ミラはふと左手の方を見た。
木々の向こうに、小さな祠が見えた。古びた石段の先に、苔むした屋根と白い花。側には細い水音があり、おそらく泉か湧き水があるのだろう。
「あれは……?」
「ああ、女神様の祠だよ」
「女神様?」
「治癒の女神様さ。昔はこの村を守ってくださったんだって言い伝えがある。まあ、今じゃ年に一度、花を供えるくらいだけどね」
「治癒の、女神……」
ミラは小さく呟いた。
その名を聞いた瞬間、胸元のペンダントがまた熱を持った気がした。
今度は気のせいではなかった。
ほんの一瞬、白い花の形をしたペンダントの縁が淡く光った。
「……?」
「どうかしたかい?」
「いえ。何でもありません」
ミラは慌てて手を離した。
旅の疲れだろうか。
それとも、慣れない土地に来たせいで少し緊張しているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、ミラは女性の後を歩いた。
村長の家は広場に面した古い木造の家だった。そこにはすでに数人の村人が集まっており、ミラの姿を見るなり安堵の息を漏らした。
擦り傷の子ども。腰を痛めた老人。熱を出した若い母親。畑で手を切った青年。
ミラは順に診ていった。
傷口を洗い、軟膏を塗り、包帯を巻く。熱を測り、薬草を煎じる。必要な時だけ、指先に淡い治癒魔法を灯した。
ミラの治癒魔法は、王都の治療師たちのように眩しく広がるものではない。
小さな灯のように、静かに患部へ染み込む魔法だった。
「はい、これで大丈夫です。今日は水仕事を控えてくださいね」
「ありがとう、治療師さん」
「痛みが増したら、すぐに呼んでください」
何人も診ているうちに、日が少し傾き始めた。
最後の患者の包帯を結び終えた時、家の外から鈍い音が響いた。
何か重いものが倒れたような音だった。
「なんだい、今の」
村長が顔を上げる。
その直後、少年の声が広場に響いた。
「エリオット兄ちゃん!」
ミラは反射的に立ち上がった。
「怪我人ですか?」
「いや、たぶん……」
村長は言いかけて、気まずそうに目を伏せた。
ミラは返事を待たずに鞄を掴み、外へ出た。
広場の端で、薪を積んだ荷車が傾いていた。散らばった薪のそばに、背の高い青年が片膝をついている。
最初に目に入ったのは、広い肩だった。
村人の作業着を着ているのに、その背筋や体つきには明らかに鍛えられた者の名残がある。厚い胸板、長い手足、腕に刻まれた古い傷。黒に近いダークブラウンの髪が額に落ち、彼は俯いたまま左手で地面を支えていた。
右手は、力なく垂れていた。
「兄ちゃん、大丈夫?」
少年が駆け寄る。
「……平気だ」
低い声だった。
青年はそう答えたが、顔色は良くない。右腕を動かそうとして、わずかに眉を寄せる。その指先は、薪の一本を掴もうとして掴めず、空を切った。
周囲の村人たちが、声をかけるべきか迷うように立ち止まっている。
心配している。
けれど、近づけない。
その空気を、ミラはすぐに察した。
患者に向けられる同情と遠慮。本人を傷つけまいとする沈黙。それが余計に深く人を孤独にすることを、ミラは何度も見てきた。
「失礼します」
ミラは青年のそばに膝をついた。
青年が顔を上げる。
灰青色の瞳が、ミラを射抜いた。
鋭い目だった。けれど、その奥にあるのは怒りではない。疲れと、諦めと、これ以上踏み込まれたくないという拒絶だった。
「……誰だ」
「治療師です。ミラ・コックスと申します。痛むところはありますか?」
「いらない」
短い拒絶だった。
ミラは瞬きをしたが、引かなかった。
「痛むところはありますか?」
「ない」
「では、動かしづらいところは?」
「……」
青年の表情が険しくなる。
周囲が、はっと息を呑んだ。
「君には関係ない」
「患者である可能性がある方を見つけた以上、関係はあります」
「俺は患者じゃない」
「では、荷車の下敷きになりかけた一般の方ですね。どちらにしても確認は必要です」
青年は明らかに面食らった顔をした。
ミラはその隙に、散らばった薪と荷車の状態を確認する。手首を捻った様子はない。膝にも大きな傷はない。問題は、やはり右腕だった。
「右腕を拝見しても?」
「断る」
「分かりました。では、左手でこの指を握れますか?」
「……何の意味がある」
「左右差を確認します」
青年は眉を寄せたまま、渋々ミラの指を左手で握った。
強い力だった。
負傷していない側は、今でも十分すぎるほど鍛えられている。
「ありがとうございます。では、右手は?」
青年の目が冷えた。
「……しつこい」
「確認です」
「治らない」
その声は、拒絶というより、事実を言い聞かせるようだった。
「王都の治療師にも無理だった。だから、君が診る必要はない」
王都の治療師。
その言葉に、周囲の空気がわずかに重くなった。
ミラは青年の顔を見た。
この人はきっと、何度も同じ説明をしたのだ。
何度も期待して、何度も失望したのだ。
そして今は、期待することそのものを諦めている。
ミラは少しだけ声を柔らかくした。
「治ると約束はできません」
「なら――」
「でも、診てもいないものを、治らないと決めることもできません」
青年が黙った。
ミラは右手を差し出した。
「痛いことはしません。触れるだけです。嫌ならすぐにやめます」
長い沈黙が落ちた。
風が麦畑を撫でる音がする。遠くで鳥が鳴いた。
やがて青年は、諦めたように右腕を差し出した。
その手首には、黒い紐で編まれた古い護符が巻かれていた。小さな金属片には、白い花にも似た紋様が刻まれている。
ミラの胸元のペンダントが、はっきりと熱を持った。
「……え?」
思わず声が漏れた。
青年も気づいたのか、わずかに目を細める。
「どうした」
「いえ……」
ミラはそっと、彼の右手首に触れた。
その瞬間。
世界の音が、遠のいた。
指先から伝わってきたのは、ただの痺れではなかった。
血管でも、神経でもない。もっと奥にある、見えないはずの流れ。
絡まり、焼け焦げ、黒い靄に縛られた細い光の筋。
それが、彼の腕の中でかすかに震えていた。
死んでいない。
ミラは直感した。
この腕は、死んでいない。
ただ、戻る道を塞がれている。
彼の手首の護符が淡く光る。
ミラの胸元で、白い花のペンダントも同じ光を返した。
青年が息を呑む。
「……今、何をした」
「私にも、分かりません」
ミラの声は震えていた。
けれど、指先は離せなかった。
この人の腕の奥にある痛みが、まるで自分のもののように伝わってくる。
諦め。怒り。悔しさ。剣を握れなくなった日の絶望。
それでも、まだ奥底に残っている。
もう一度、立ち上がりたいという願いが。
ミラは青年の右手を両手で包んだ。
温かな光が、彼女の掌から零れた。
村人たちがざわめく。
光は眩しいものではなかった。
静かで、柔らかくて、白い花がほどけるような光だった。
青年の指先が、ぴくりと動いた。
「……っ」
彼の灰青色の瞳が見開かれる。
ミラも息を止めた。
今、動いた。
ほんのわずかに。
けれど、確かに。
「あなたの腕は……」
ミラは、震える声で言った。
「まだ、生きています」
青年は何も言わなかった。
ただ、信じられないものを見るように、自分の右手を見つめていた。
その手首で、古い護符が淡く光り続けている。
そしてミラの胸元では、白い花のペンダントが、まるで長い眠りから目覚めたように、静かに温もりを放っていた。
はじめまして、月森しおりと申します。
初めて連載させていただくので、不行き届きな点もあるかと思いますが、温かい目でこの物語を追いかけていただければと思います。
よろしくお願いします。




