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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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旅する治療師と、傷ついた騎士

 王都から遠く離れた山裾の村に、ひとりの治療師がやってきた。

 馬車を降りたミラ・コックスは、肩にかけた革鞄の紐を掛け直し、目の前に広がる景色を見つめた。

 なだらかな丘陵。石垣で区切られた畑。風に揺れる麦の穂。遠くには青みがかった山並みが連なり、村の家々はその谷間に寄り添うように建っている。

 王都の尖塔や石畳とはまるで違う。ここでは時間の流れまでゆるやかに感じられた。

 けれど、ミラは知っている。

 静かな村ほど、医者も治療師も足りていない。

 怪我をしても、熱を出しても、魔物に襲われても、すぐに手当てを受けられるとは限らない。

 だから自分のような旅治療師が呼ばれるのだ。

「ここが、今回の村……」

 ミラは小さく息を吐いた。

 生成りのブラウスの袖口を直し、セージグリーンのベストについた埃を軽く払う。腰に下げた小瓶が、歩くたびに小さく触れ合って鳴った。

 革鞄の中には、包帯、軟膏、薬草、ポーション、小型の魔力結晶、応急用の魔法陣札。どれも高価なものではない。けれど、旅をしながら何度も人の命を繋いできた、ミラにとっては何より頼りになる道具たちだった。

 王都にいた頃、ミラの魔法は目立たなかった。

 攻撃魔法は苦手。結界魔法も平均程度。大規模な治癒術式も扱えない。魔術学校を卒業したものの、王都の治療院に入る枠は、彼女より優秀な生徒たちに埋められていた。

 だから、ミラは王都を出た。

 それから二年。村から村へ、町から町へ。時には冒険者の一団に同行し、時には旅芸人や商隊と共に道を行き、怪我人や病人を診てきた。

 派手な魔法は使えなくても、痛む場所を見つけることはできる。

 震える手を握ることはできる。

 熱に浮かされた子どもの額に、濡れ布を乗せることはできる。

 それだけで救える命が、確かにあった。

 村の入り口には、年季の入った木の看板が立っていた。文字は風雨に晒されて薄くなっていたが、かろうじて村名は読める。

 その下に、小さな白い花が供えられていた。

「花……?」

 ミラは思わず足を止めた。

 白い花は、村道の端にぽつんと置かれている。誰かが落としたというより、意図して供えたように見えた。

 花弁は清らかで、朝露を含んだように淡く光っている。

 白花の治療師。

 誰かがミラをそう呼んだ。ミラの治療魔法が白い花が咲くような光を放つから。

 ミラは胸元に手をやった。

 ブラウスの襟元に隠れるようにして、小さな白い花のペンダントが揺れている。亡くなった母から譲られたものだ。古いものだが、不思議と傷まない。

 なぜか、その供え花を見た瞬間、胸元のペンダントがほんの少しだけ温かくなった気がした。

「……気のせい、かな」

 ミラはペンダントを指先で押さえ、首を傾げた。

 その時、村の奥から慌ただしい声が聞こえた。

「治療師さんかい?」

 振り向くと、丸顔の中年女性が小走りでこちらへ向かってきていた。エプロンの端を握りしめ、額には汗を浮かべている。

「はい。ミラ・コックスです。こちらで数日、診療のお手伝いをすることになっております」

「ああ、よかった! 待ってたんだよ。村長のところへ案内するから、こっちへおいで」

「はい。よろしくお願いします」

 ミラは軽く頭を下げ、女性の後を追った。

 村は小さいが、手入れは行き届いていた。畑の脇には薬草らしき草も植えられている。けれど、道行く人々の表情には、どこか疲れが滲んでいた。

「最近、怪我人が多いんですか?」

 ミラが尋ねると、女性は困ったように眉を下げた。

「春先から森に魔物が出るようになってね。騎士団に討伐依頼は出してるんだけど、王都からここまでは少し距離があるだろう? 冒険者もたまに来るけど、いつもいるわけじゃない。畑仕事中の怪我や腰痛も多いし、子どもはすぐ熱を出すし……村の薬師だけじゃ追いつかなくてね」

「分かりました。まずは重い症状の方から診ます」

「助かるよ。若いのに、しっかりしてるんだねえ」

 ミラは曖昧に微笑んだ。

 若いのに、という言葉には慣れている。

 しっかりしている、という言葉にも。

 でも、優秀だと言われたことは、ほとんどなかった。

 村の広場に差しかかった時、ミラはふと左手の方を見た。

 木々の向こうに、小さな祠が見えた。古びた石段の先に、苔むした屋根と白い花。側には細い水音があり、おそらく泉か湧き水があるのだろう。

「あれは……?」

「ああ、女神様の祠だよ」

「女神様?」

「治癒の女神様さ。昔はこの村を守ってくださったんだって言い伝えがある。まあ、今じゃ年に一度、花を供えるくらいだけどね」

「治癒の、女神……」

 ミラは小さく呟いた。

 その名を聞いた瞬間、胸元のペンダントがまた熱を持った気がした。

 今度は気のせいではなかった。

 ほんの一瞬、白い花の形をしたペンダントの縁が淡く光った。

「……?」

「どうかしたかい?」

「いえ。何でもありません」

 ミラは慌てて手を離した。

 旅の疲れだろうか。

 それとも、慣れない土地に来たせいで少し緊張しているのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせて、ミラは女性の後を歩いた。

 村長の家は広場に面した古い木造の家だった。そこにはすでに数人の村人が集まっており、ミラの姿を見るなり安堵の息を漏らした。

 擦り傷の子ども。腰を痛めた老人。熱を出した若い母親。畑で手を切った青年。

 ミラは順に診ていった。

 傷口を洗い、軟膏を塗り、包帯を巻く。熱を測り、薬草を煎じる。必要な時だけ、指先に淡い治癒魔法を灯した。

 ミラの治癒魔法は、王都の治療師たちのように眩しく広がるものではない。

 小さな灯のように、静かに患部へ染み込む魔法だった。

「はい、これで大丈夫です。今日は水仕事を控えてくださいね」

「ありがとう、治療師さん」

「痛みが増したら、すぐに呼んでください」

 何人も診ているうちに、日が少し傾き始めた。

 最後の患者の包帯を結び終えた時、家の外から鈍い音が響いた。

 何か重いものが倒れたような音だった。

「なんだい、今の」

 村長が顔を上げる。

 その直後、少年の声が広場に響いた。

「エリオット兄ちゃん!」

 ミラは反射的に立ち上がった。

「怪我人ですか?」

「いや、たぶん……」

 村長は言いかけて、気まずそうに目を伏せた。

 ミラは返事を待たずに鞄を掴み、外へ出た。

 広場の端で、薪を積んだ荷車が傾いていた。散らばった薪のそばに、背の高い青年が片膝をついている。

 最初に目に入ったのは、広い肩だった。

 村人の作業着を着ているのに、その背筋や体つきには明らかに鍛えられた者の名残がある。厚い胸板、長い手足、腕に刻まれた古い傷。黒に近いダークブラウンの髪が額に落ち、彼は俯いたまま左手で地面を支えていた。

 右手は、力なく垂れていた。

「兄ちゃん、大丈夫?」

 少年が駆け寄る。

「……平気だ」

 低い声だった。

 青年はそう答えたが、顔色は良くない。右腕を動かそうとして、わずかに眉を寄せる。その指先は、薪の一本を掴もうとして掴めず、空を切った。

 周囲の村人たちが、声をかけるべきか迷うように立ち止まっている。

 心配している。

 けれど、近づけない。

 その空気を、ミラはすぐに察した。

 患者に向けられる同情と遠慮。本人を傷つけまいとする沈黙。それが余計に深く人を孤独にすることを、ミラは何度も見てきた。

「失礼します」

 ミラは青年のそばに膝をついた。

 青年が顔を上げる。

 灰青色の瞳が、ミラを射抜いた。

 鋭い目だった。けれど、その奥にあるのは怒りではない。疲れと、諦めと、これ以上踏み込まれたくないという拒絶だった。

「……誰だ」

「治療師です。ミラ・コックスと申します。痛むところはありますか?」

「いらない」

 短い拒絶だった。

 ミラは瞬きをしたが、引かなかった。

「痛むところはありますか?」

「ない」

「では、動かしづらいところは?」

「……」

 青年の表情が険しくなる。

 周囲が、はっと息を呑んだ。

「君には関係ない」

「患者である可能性がある方を見つけた以上、関係はあります」

「俺は患者じゃない」

「では、荷車の下敷きになりかけた一般の方ですね。どちらにしても確認は必要です」

 青年は明らかに面食らった顔をした。

 ミラはその隙に、散らばった薪と荷車の状態を確認する。手首を捻った様子はない。膝にも大きな傷はない。問題は、やはり右腕だった。

「右腕を拝見しても?」

「断る」

「分かりました。では、左手でこの指を握れますか?」

「……何の意味がある」

「左右差を確認します」

 青年は眉を寄せたまま、渋々ミラの指を左手で握った。

 強い力だった。

 負傷していない側は、今でも十分すぎるほど鍛えられている。

「ありがとうございます。では、右手は?」

 青年の目が冷えた。

「……しつこい」

「確認です」

「治らない」

 その声は、拒絶というより、事実を言い聞かせるようだった。

「王都の治療師にも無理だった。だから、君が診る必要はない」

 王都の治療師。

 その言葉に、周囲の空気がわずかに重くなった。

 ミラは青年の顔を見た。

 この人はきっと、何度も同じ説明をしたのだ。

 何度も期待して、何度も失望したのだ。

 そして今は、期待することそのものを諦めている。

 ミラは少しだけ声を柔らかくした。

「治ると約束はできません」

「なら――」

「でも、診てもいないものを、治らないと決めることもできません」

 青年が黙った。

 ミラは右手を差し出した。

「痛いことはしません。触れるだけです。嫌ならすぐにやめます」

 長い沈黙が落ちた。

 風が麦畑を撫でる音がする。遠くで鳥が鳴いた。

 やがて青年は、諦めたように右腕を差し出した。

 その手首には、黒い紐で編まれた古い護符が巻かれていた。小さな金属片には、白い花にも似た紋様が刻まれている。

 ミラの胸元のペンダントが、はっきりと熱を持った。

「……え?」

 思わず声が漏れた。

 青年も気づいたのか、わずかに目を細める。

「どうした」

「いえ……」

 ミラはそっと、彼の右手首に触れた。

 その瞬間。

 世界の音が、遠のいた。

 指先から伝わってきたのは、ただの痺れではなかった。

 血管でも、神経でもない。もっと奥にある、見えないはずの流れ。

 絡まり、焼け焦げ、黒い靄に縛られた細い光の筋。

 それが、彼の腕の中でかすかに震えていた。

 死んでいない。

 ミラは直感した。

 この腕は、死んでいない。

 ただ、戻る道を塞がれている。

 彼の手首の護符が淡く光る。

 ミラの胸元で、白い花のペンダントも同じ光を返した。

 青年が息を呑む。

「……今、何をした」

「私にも、分かりません」

 ミラの声は震えていた。

 けれど、指先は離せなかった。

 この人の腕の奥にある痛みが、まるで自分のもののように伝わってくる。

 諦め。怒り。悔しさ。剣を握れなくなった日の絶望。

 それでも、まだ奥底に残っている。

 もう一度、立ち上がりたいという願いが。

 ミラは青年の右手を両手で包んだ。

 温かな光が、彼女の掌から零れた。

 村人たちがざわめく。

 光は眩しいものではなかった。

 静かで、柔らかくて、白い花がほどけるような光だった。

 青年の指先が、ぴくりと動いた。

「……っ」

 彼の灰青色の瞳が見開かれる。

 ミラも息を止めた。

 今、動いた。

 ほんのわずかに。

 けれど、確かに。

「あなたの腕は……」

 ミラは、震える声で言った。

「まだ、生きています」

 青年は何も言わなかった。

 ただ、信じられないものを見るように、自分の右手を見つめていた。

 その手首で、古い護符が淡く光り続けている。

 そしてミラの胸元では、白い花のペンダントが、まるで長い眠りから目覚めたように、静かに温もりを放っていた。



はじめまして、月森しおりと申します。

初めて連載させていただくので、不行き届きな点もあるかと思いますが、温かい目でこの物語を追いかけていただければと思います。

よろしくお願いします。

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