背負わないための手順 3
夕暮れ、ミラは薬草小屋の外に一人で立っていた。
一人といっても、すぐ近くにはエリオットがいる。彼は少し離れた位置で、ハンスから集落周辺の道を聞いていた。
ミラは森を見た。
あの中には、黒い種がある。
納屋にはジルがいる。
これから向かうサリア水車村へ続く旧道にも、何かがあるかもしれない。
胸が重い。
ジルは悪いことをした。
それでも、命令痕をつけられていた。
これから先、自分たちが進む場所で、また誰かが同じように使われるかもしれない。
ミラが黒いものを見つけるから。
エリオットの右腕が戻り始めたから。
敵が、それを試すために人を使うかもしれない。
「ミラ」
いつの間にか、エリオットが隣に立っていた。
「顔色が悪い」
「……少し、考えていました」
「ジルのことか」
「はい」
ミラは白花のペンダントを握った。
「ジルさんは悪いことをしました。でも、あんなふうに命まで握られるほどのことだったのかと思うと……」
「ああ」
「これから先も、誰かが巻き込まれるかもしれません。私たちが行く場所で。私たちを試すために」
言葉にすると、怖さが形になった。
ミラは唇を噛む。
「そう思うと、怖いです」
エリオットはしばらく黙っていた。
森の奥で、鳥が短く鳴く。
やがて彼は低く言った。
「俺を治そうとしているからだ」
ミラはすぐに顔を上げた。
「違います」
エリオットは彼女を見なかった。
「俺の右腕が戻り始めたから、誰かが焦っている。君が俺を治療しているから、観察されている。君が巻き込まれているのは」
「違います」
今度は、はっきり言った。
エリオットが口を閉じる。
「エリオットさんのせいではありません。あなたの腕を壊した人たちがいるからです。黒いものを使って、人を道具にする人たちがいるからです」
ミラの声は震えていた。
怒りと、怖さと、悲しみが混じっていた。
「私は、エリオットさんを治したいです。それは、誰かを巻き込むためじゃありません。あなたが取り戻すべきものを、取り戻すためです」
「だが」
「でも」
ミラはそこで一度、息を吸った。
「でも、怖いです。今のまま王都へ戻るのは。誰がどこまで関わっているのか分からないし、エリオットさんの腕も、私の力も、まだ途中だから」
エリオットはようやく彼女を見た。
ミラは正直に続ける。
「王都には兄さんもいます。オルガさんもいる。味方もいるはずです。でも、あなたの腕を壊した人たちもいるかもしれない。黒いものを使う人たちも。……私は、まだ戻るのが怖い」
沈黙。
エリオットは、静かに頷いた。
「俺も、まだ戻るべきではないと思う」
「はい」
「誰がどこまで関わっているのか、俺にも分からない。騎士団の誰か。禁術に関わる誰か。だが、それ以上はまだ見えない」
王宮の影までは、二人とも知らない。
だからこそ、今は動き方を誤れない。
「今戻れば、君も俺も壊される可能性がある」
エリオットの声は重かった。
「だから、戻らない。逃げるためじゃない。戻る準備をするために進む」
ミラはその言葉を受け止めた。
「戻る準備」
「ああ。情報を集める。味方を作る。手順を作る。俺の右腕を少しずつ戻す。君の力も、無理なく扱えるようにする」
「そして、王都へ」
「取り戻すために戻る」
以前、リンドルを発つ時に彼が言った言葉と同じだった。
けれど今は、そこに別の重さが加わっていた。
ジルのような者を、これ以上増やさないために。
ネロの残したものを無駄にしないために。
グレイル村やレーンの集落のような場所を、二度と実験場にさせないために。
ミラはゆっくり頷いた。
「じゃあ、次の村でも手順を作ります」
「ああ」
「患者さんの呼び出しは、必ず現地の人を通す。私は一人で行かない。黒いものはすぐ触らず、まず記録と隔離。危険物は反応写しを取る」
「手紙は符丁。分散して送る」
「王都へ直接ではなく、リンドル経由で父さんへ。必要なものは兄さんへ」
「現地の味方を初日に作る」
「薬草師さん、水場の管理者さん、村長さん、見張り役」
「それから、君は治療数を増やしすぎない」
ミラは少しだけ目を細めた。
「そこも入りますか?」
「入る」
「……はい」
エリオットは真面目な顔だった。
ミラは小さく笑う。
怖さは消えていない。
けれど、怖いから立ち止まるのではない。
怖いからこそ、手順を作る。
その夜、ミラとエリオットは村長宅の一室で、次の村以降の行動規則を書き出した。
一、到着後、現地の責任者へ必ず挨拶する。
二、治療場所は開けた場所に設ける。出入口を確認する。
三、患者の呼び出しは、村長・薬草師・水場管理者など現地の人を通す。
四、夜間の往診は原則しない。必要時は複数人で同行。
五、黒い反応は即処理せず、記録・隔離・反応写し。
六、危険物は実物を動かさず、まずリンドルへ相談。
七、手紙は符丁を使い、情報を分散する。
八、ミラの治療数はエリオットが記録し、上限を超えたら止める。
九、エリオットの右手も、進展があっても再現確認をしすぎない。
十、判断に迷ったら、一人で決めない。
最後の一文を書いた時、ミラはしばらく筆を止めた。
一人で決めない。
それは、今の二人に一番必要な規則かもしれなかった。
エリオットが紙を見つめる。
「良い」
「本当に?」
「ああ」
「では、これを次の村にも持っていきましょう」
「ああ」
ミラは紙を丁寧に畳んだ。
机の上には、反応写しを封じた小さな筒が並んでいる。明日から時間をずらしてリンドルへ送る予定だ。
納屋にはジルがいる。
湿地には黒い種がある。
森の外には、まだ見えない目がある。
それでも、二人は次へ進むための形を作り始めていた。
誰かを救うために。
誰かを守るために。
そしていつか、王都へ戻るために。
初夏の夜、レーンの森は静かだった。
静けさの中で、白い流れはまだ細く、けれど確かに続いていた。




