命令痕の朝 3
その日の昼前、ミラたちは今後の手順を決めた。
ジルはレーンの集落で一時保護拘束。
命令痕があるため、移動は危険。
無理な尋問は禁止。
首筋の印が黒くなったら白石布とマルタの薬草で処置。
銅貨、木札、黒糸、布包みは媒介候補として隔離。
ミラは符丁を使ってリンドル経由でオリヴァーへ連絡する。
オリヴァー。
その名を口にした時、ミラは少しだけ安心した。
自分だけでは命令痕を消せない。
けれど、父なら、ロアンなら、リンドルの魔道具屋なら、何か分かるかもしれない。
エリオットも同じことを考えていたのだろう。
「これは職人の領分だ」
彼は言った。
「君が無理に消す必要はない」
「はい」
「孤立させただけで十分だ」
「……十分でしょうか」
「ジルは生きている」
短い言葉だった。
けれど、ミラにはそれが重かった。
ネロは助けきれなかった。
ジルは、少なくとも今は生きている。
それは小さな違いではない。
ミラは手紙を書いた。
符丁表を横に置き、言葉を選ぶ。
――黒い根の運び手あり。
――命令痕発作。白花で孤立化し、処分は回避。
――命令痕は残存。媒介経由の可能性。
――冷えた銅貨三枚、黒蜜跡のある木札、黒糸、根入り包みを隔離。
――旧水車道の名に反応あり。
――職人の判断を求めます。
書き終えた後、ミラは封をした。
エリオットが確認する。
「直接名はないな」
「はい」
「旧水車道は、そのままでいい。地名ではあるが、具体の村名よりはましだ」
「分かりました」
「よく書けている」
その言葉に、ミラは少しだけ目を瞬いた。
「褒めました?」
「事実を言った」
「それを褒めると言います」
「そうか」
エリオットは真面目に頷いた。
ミラは少し笑った。
こんな朝だったのに、少しだけ笑える。
それがありがたかった。
遠い王都の黒い研究室で、セヴラン・ノックスは水晶盤の前に立っていた。
レーンの集落を示す小さな黒点のひとつが、白い輪に囲まれて鈍くなっている。
ジルの命令痕。
処分機構は発動した。
だが、消えなかった。
殺し切れなかった。
研究員が青ざめた顔で言った。
「先生……命令痕が失効しかけています」
セヴランは何も答えなかった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、彼は笑わなかった。
研究員は息を止める。
やがて、セヴランの口元にいつもの笑みが戻った。
「……なるほど。そこへ触れますか」
声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの底に、冷たい不快感が沈んでいる。
「簡易印です。多少の干渉は想定内でしょう」
研究員は何も言わなかった。
想定内。
そう言いながら、セヴランの指先は水晶盤の縁を静かに叩いている。
一度。
二度。
「ですが、少し不愉快ですね」
彼は微笑んだまま言った。
「破壊したのではない。命令の通り道を孤立させた。あの治療師は、何を見ているのでしょう」
「コックス工房に連絡が行く可能性があります」
「行くでしょうね」
「媒介を解析されれば」
「ええ」
セヴランの目が細くなる。
「私の術式を理解したつもりになられるのは、あまり好ましくありません」
研究員の背筋が冷えた。
「では、回収しますか」
「いいえ」
セヴランは水晶盤を見下ろした。
白花。
剣の枝。
職人。
媒介。
いくつもの点が、彼の盤面の上で繋がり始めている。
「理解したつもりになった者が、次にどこで間違えるのか。そこを見るのも研究です」
彼は静かに笑った。
「ただし、次はもう少し精密にしましょう」
その声を聞いて、研究員は悟った。
セヴランは止めない。
むしろ、深くする。
自分の術式が破られかけたことを恐れるのではなく、その傷口を覗き込むために、さらに黒い手を伸ばす。
レーンの集落では、朝の光がようやく森の中へ差し始めていた。
ジルは納屋の中で眠っている。命令痕はまだ残るが、喉へ伸びる気配は今のところない。
ミラは納屋の外で、深く息を吐いた。
助けきれたわけではない。
解決したわけでもない。
でも、捨て駒として死なせなかった。
エリオットが隣に立つ。
「次は、オリヴァー殿たちの返事を待つ」
「はい」
「それまでは集落を守る手順を続ける。湿地の種も、ジルの命令痕も、無理に触らない」
「分かっています」
「本当に?」
「本当に」
ミラは少しだけ笑った。
その笑顔には疲れがあった。
けれど、折れてはいなかった。
初夏の森は、湿った光の中で静かに息づいている。
黒い種も、命令痕も、まだ残っている。
それでも、白い流れは途切れていない。
戻る道は、まだある。




