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命令痕の朝 1

 夜明け前、レーンの集落に犬の低い唸り声が響いた。

 吠えるのではない。

 何かを警戒し、喉の奥で押し殺すような声だった。

 最初に目を覚ましたのは、エリオットだった。

 村長宅の小部屋で、彼は寝台から身を起こした。右腕は補助具の中で重く、薬指には昨日から続く鈍い感覚が残っている。

 痛みではない。

 だが、嫌な重さだった。

 彼は左手で護符を押さえる。

 白花と剣の護符が、冷たくなっていた。

「……納屋か」

 短く呟いた時、廊下の向こうからミラの声がした。

「エリオットさん?」

「起きているか」

「はい。今、白花が……」

 扉を開けると、ミラも外套を羽織っていた。胸元の白花のペンダントを押さえ、顔色を強張らせている。

「ジルさんですか」

「可能性が高い」

 エリオットは杖を取った。

「一人では行かない。ハンスさんとトマを呼ぶ」

「はい」

 ミラはすぐに頷いた。

 以前なら、駆け出していたかもしれない。

 けれど今は違う。

 危険な時ほど、手順を守る。

 それを二人は、グレイル村で嫌というほど学んでいた。

     

 納屋の前には、すでにトマがいた。

 弓は構えていない。だが、矢筒の蓋は外され、いつでも動ける姿勢だ。

「中で暴れてる」

 トマは低く言った。

「見張りは?」

「無事だ。だが、急に眠気が来たらしい。外へ出して水を飲ませてる」

 エリオットの目が細くなる。

 眠気。

「中へ入るのは、俺とミラ、マルタさん。トマは入口。ハンスさんは外の人を下げてください」

 ハンスがすぐに頷いた。

「分かった」

 ミラは鞄から白石布と反応針を取り出す。

 マルタも薬草の小瓶を手に来ていた。

「小僧は死にかけてるのかい」

「分かりません。でも、命令痕が動いていると思います」

 ミラの声は固い。

 マルタは短く息を吐いた。

「なら、命を拾う準備をするよ。罪を裁くのは、その後だ」

 その言葉に、ミラは小さく頷いた。

     

 納屋の中は、ひどく冷えていた。

 夏前の朝とは思えないほど、空気が沈んでいる。床に撒かれた白石粉の輪は、半分ほど黒く曇っていた。

 ジルは柱に背を預ける形で座らされていたはずだった。

 だが今は、床に倒れ、首筋を押さえている。

 喉が締まっているのだ。

 声も出せず、目だけが恐怖で見開かれていた。

 首筋の命令痕が黒く浮かび上がっている。昨日は薄い染みのようだったそれが、今は棘のような模様になり、喉へ伸びようとしていた。

 ミラの胸元で白花が強く冷える。

「ジルさん!」

 駆け寄ろうとしたミラを、エリオットが止めた。

「距離を取って。まず針」

 ミラは踏みとどまり、反応針をかざす。

 針先は黒変。

 だが、ネロの黒輪の時ほど激しく震えてはいない。

「黒輪ほど深くありません。でも、喉へ伸びています」

「処分機構か」

 エリオットが低く言う。

 ジルは床で震えながら、かすれた息を漏らした。

「た、す……」

 助けて。

 最後まで言葉にならなかった。

 ミラは白石布を広げ、ジルの首筋に直接触れない位置でかざした。

「黒を剥がしません。周りの流れを見ます」

 自分に言い聞かせるように呟く。

 白花の光が指先に灯った。

 昨日、湿地で黒い種を孤立させた時と同じように。

 黒い命令痕そのものではなく、その周囲にあるジル本来の流れを探す。

 見えた。

 細い白い流れが、首筋から胸へ向かっている。

 そこへ黒い棘が食い込み、喉の方へ道を曲げようとしていた。

 命令痕は、ジルの命を握っているのではない。

 ジルの身体が持つ流れを、無理やり喉へ向けて捻じ曲げている。

「……媒介」

 ミラは小さく呟いた。

「何だ」

 エリオットが尋ねる。

「これ、術者が直接刻んだものじゃないかもしれません。ジルさんの中に深く根を張っているというより、外から引っかけられています」

「外から?」

「はい。何かを触った時に、印だけ残されたみたいな……」

 ジルの首筋の黒が強まる。

 ミラは急いで光を細くした。

 黒を押さえつけない。

 白い流れを、喉へ曲げられないように戻す。

 ジルが激しく咳き込んだ。

 黒い靄が少し漏れる。

 マルタがすぐに薬草布を口元へ近づける。

「吸うんじゃないよ。吐きな」

 ジルは涙を流しながら、言われた通りに息を吐いた。

 エリオットは入口側に立ち、納屋の外と中を同時に見ている。

 右腕は使わない。

 使えない。

 それでも彼の位置取りは、ミラとジルの間に不意のものが飛び込むのを防いでいた。

「反応針」

「震えは弱くなっています」

 ミラは答えた。

「もう少しだけ」

「一呼吸」

 エリオットの声。

 いつもの制止。

 ミラは頷いた。

 命令痕の周りに、白い細い輪を作る。

 湿地の黒い種を孤立させた時よりも、ずっと小さい。

 けれど、やることは同じだった。

 黒い命令の通り道を、ジル本来の流れから切り離す。

 白花の光がふわりと首筋に散った。

 黒い棘模様が、喉へ伸びるのをやめる。

 ジルの呼吸が戻った。

「っ、は……はあっ……!」

 彼は床に崩れたまま、激しく息を吸った。

 ミラはすぐに手を引いた。

「ここまでです」

「消えたのか?」

 トマが入口から尋ねる。

 ミラは首を横に振った。

「いいえ。命令痕は残っています。ただ、喉へ伸びるのは止めました。強制力を弱めただけです」

 ジルは震えながら自分の首筋に触れようとした。

「触らないでください」

 ミラが厳しく言うと、ジルはびくりと手を引いた。

 その顔から、昨夜のふてぶてしさは消えていた。

 彼は今、ようやく理解したのだ。

 自分がただの雇われ仕事をしていたのではないことを。

 失敗すれば、簡単に捨てられる側にいたのだと。

     


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