森の外から来た呼び声 1
レーンの集落に、夕暮れが降り始めていた。
初夏の空はまだ明るい。けれど森の縁だけは早く夜を抱え込む。木々の奥は青黒く沈み、湿地の方角からは水を含んだ風が流れてきていた。
ミラは薬草小屋で、黒ずんだ薬草を一束ずつ確認していた。
マルタが集めてくれたものだ。
北の湿地近くで採れた薬草だけ、根元が黒く腐りかけている。南側の薬草には反応がない。
「やっぱり、黒い種の影響は北側に偏っています」
ミラは白石布の上に薬草を並べながら言った。
隣でマルタが腕を組む。
「南の薬草場は無事ってことかい」
「今のところは。けれど、念のため数日は分けて管理してください」
「分かった。北のものは捨てずに隔離。燃やさない。素手で触らない。だったね」
「はい」
マルタは鼻を鳴らした。
「あんたは若いのに、年寄りより口うるさいね」
「すみません」
「褒めてるんだよ」
ミラが瞬くと、マルタは少し笑った。
その時、薬草小屋の戸が慌ただしく叩かれた。
「治療師さん!」
若い男の声だった。
ミラが顔を上げる。
戸の外には、見覚えのない青年が立っていた。肩で息をし、額には汗が浮かんでいる。
「森の北端の小屋で、子どもが急に熱を出した。すぐ来てくれって!」
ミラは反射的に立ち上がりかけた。
しかし、その前に入口近くにいたエリオットが一歩動いた。
「誰の子だ」
低い声だった。
青年は一瞬、言葉に詰まった。
「え、あ……木こりの、子だ。名前は」
「この集落の木こりなら、誰の小屋かハンスかマルタを通す。なぜ直接ここへ来た」
青年の喉が動いた。
ミラはその違和感に気づいた。
そして、青年の足元を見る。
靴についた土が赤い。
レーンの森の湿った黒土ではない。街道沿いで見た、乾いた赤土だった。
エリオットも同じものを見ていたのだろう。
「森の北から来たと言ったな」
「ああ、そうだ」
「その靴で?」
青年の顔が強張った。
マルタが目を細める。
「この集落の者じゃないね」
空気が変わった。
青年は一歩後ずさる。
その袖口から、小さな布包みが覗いた。ミラの白花のペンダントが、かすかに冷える。
「エリオットさん」
「ああ」
エリオットはミラの前に出すぎず、しかし青年とミラの間に立った。
「その布包みを置け」
「何のことだよ」
「置け」
青年は笑おうとした。
だが、笑いきれなかった。
その瞬間、マルタが戸口の横に吊っていた木笛を取った。
短く、二回。
鋭い音が集落に響いた。
笛の音は、すぐに伝わった。
外で犬が吠える。
近くの家の扉が開く。
誰かが「薬草小屋だ!」と叫ぶ。
足音が複数、こちらへ近づいてくる。
青年は舌打ちした。
逃げようと身を翻す。
だが、薬草小屋の外にはすでにトマがいた。
弓を構えてはいない。
矢をつがえてもいない。
ただ、逃げ道を塞ぐ位置に立っている。
「森へ逃げるな」
トマが言った。
「湿地へ誘うつもりなら、乗らない」
青年の顔色が変わった。
エリオットの言葉と、トマの判断。
それだけで、相手の筋書きは崩れた。
青年は腰の短刀に手を伸ばしかけた。
その瞬間、エリオットの杖が動いた。
剣ではない。
右腕でもない。
左手で持った杖の先が、青年の手首を正確に打った。
「っ!」
短刀が落ちる。
エリオットは追撃しない。踏み込みすぎない。右腕をかばいながら、一歩だけ位置を変えてミラへの道を塞ぐ。
トマがすぐ青年の肩を押さえ、森番が後ろから腕を取った。
青年は暴れたが、集落の男たちが駆けつける頃には、もう動けなくなっていた。
「何者だ」
ハンスが低く問う。
青年は答えない。
代わりに、袖口の布包みが床に落ちた。
ミラは近づこうとして、エリオットに止められた。
「触るな」
「はい」
ミラは白石布を取り出し、布包みの上にかぶせる。
その瞬間、白石布の端がじわりと黒く曇った。
マルタが息を呑む。
「黒いものかい」
「薄いです。でも、湿地の種と似ています」
ミラは目を閉じた。
布包みの中には、小さな乾いた薬草の根が入っている。けれどそれは薬ではない。根の奥に、黒い筋が染みている。
持ち込まれたものだ。
患者を呼び出すためだけではない。
集落の中へ黒いものを入れるための荷でもあった。
「この人は、患者さんの使いではありません」
ミラは静かに言った。
「黒いものを運んできています」
ハンスの顔が怒りで歪んだ。
だが、エリオットが先に言った。
「殴るな。話を聞けなくなる」
ハンスは拳を握ったまま、深く息を吐いた。
「……分かった」
トマが青年を押さえたまま言う。
「森の北端に小屋なんてない。あるのは古い炭焼き跡だけだ」
「そこへ誘うつもりだったか」
エリオットが青年を見下ろす。
青年は唇を噛んだまま黙っている。
その沈黙が答えだった。




