初夏の湿地に眠る種 3
集落に戻ると、ハンスとマルタがすぐに集まった。
ミラは湿地で見たものを、できるだけ分かりやすく説明した。
「水全部が悪いわけではありません。湧き水は今のところ澄んでいます。ただ、北の湿地の土に黒い種のようなものがあります。薬草の根へ向かう流れを歪めていました」
マルタは眉をひそめる。
「土の病みたいなものかい」
「近いと思います」
「抜けるのかい」
「今は抜きません。広がらないように周囲の流れを整えました。北側の湿地には近づかないでください」
ハンスはすぐに村人へ指示を出した。
「北の薬草場は閉鎖だ。採るのは南と東だけにしろ。子どもは森の入口まで。湿地へ行く者はトマの許可を取れ」
マルタは黒ずんだ薬草を入れる専用の籠を用意した。
「これに入れな。素手で触るんじゃないよ。あんたたちも、黒ずんだものを見つけたら勝手に捨てずに私へ持ってきな」
村人たちが頷く。
グレイル村で見た光景と似ている。
でも、今回はもっと早い。
被害が広がりきる前に、手順ができていく。
ミラはそのことに、静かな安堵を覚えた。
夕方、ミラはエリオットの右手を診た。
村長宅の一室で、反応針と記録帳を置き、補助具の手首側だけを緩める。
「痛みは?」
「三。湿地の後、一度四に近かったが、今は戻った」
「熱は?」
「手首から肘。肩までは上がっていない」
「親指、人差し指、中指」
「感覚あり」
「薬指は?」
エリオットは少し目を伏せた。
「重い。触れられているとは分からない。ただ、指がある感覚が残っている」
ミラは慎重に薬指の側へ手をかざした。
白い流れは、確かにそこへ伸びかけている。
でも、まだ細い。
黒い封じが、薬指と小指の側に深く噛んでいる。
無理に進めれば壊れる。
「今日は見るだけです」
「ああ」
「支えたことも、薬指の重さも、記録します。でも再現はしません」
「分かっている」
エリオットは本当に動かそうとしなかった。
ミラは少し微笑む。
「以前より、慎重になりましたね」
「戻りかけたものを失いたくない」
その言葉は、静かだった。
けれど、強かった。
ミラは記録帳へ書く。
――湿地処置時、右手で採取瓶を数秒支える。親指、人差し指、中指使用。
――薬指に“重さ”の感覚あり。触覚ではない。位置覚の手前か。
――痛み一時四未満、現在三。熱は手首から肘。肩上昇なし。
――追加確認禁止。
書き終えると、エリオットがその文字を見た。
「また追加禁止か」
「必要です」
「正しいな」
「正しいです」
二人は少しだけ笑った。
その夜、遠い王都の黒い研究室で、セヴラン・ノックスは水晶盤を見下ろしていた。
盤面の上、レーンの森を示す黒い点が、白い輪に囲まれるように静かになっている。
研究員が息を呑んだ。
「種が……孤立しています」
「抜かなかった」
セヴランは呟いた。
「壊さず、焼かず、封じきらず、周囲の流れを変えて孤立させた」
彼はしばらく黙っていた。
いつもの微笑みはある。
だが、その奥に、ほんのわずかな鋭さが混じっていた。
「面白い」
研究員は沈黙する。
「先生、想定内ですか」
「半分は」
セヴランは素直に答えた。
「白花が黒に干渉するとは思っていました。けれど、土地の流れにまで触れるのは少し早い」
「危険では」
「危険ですよ」
彼は楽しげに言う。
「ですが、危険なものほど、輪郭を知る価値がある」
盤面の端で、もう一つの白い反応が揺れた。
エリオットの右手。
薬指へ伸びかけた細い白い流れ。
セヴランの目が細くなる。
「剣の手も戻り始めましたね」
「ガレス副団長が知れば、動くのでは」
「動くでしょう」
「侯爵閣下も」
「ええ」
セヴランは黒い盤面に指を置いた。
「では、次は人の手が動いた時、白花と剣がどう守るのかを見ましょう」
その言葉は、静かだった。
静かすぎて、研究員の背筋が冷えた。
レーンの集落では、夜の見回りが始まっていた。
トマと森番が北側を見張り、ハンスが湿地への道を閉じる。マルタは黒ずんだ薬草を小屋に集め、ミラはそれを明日改めて確認することになった。
ミラは客室の窓から外を見た。
森は暗い。
けれど、昨日ほど重くはない。
「少しだけ、流れが戻りました」
彼女が言うと、エリオットは頷いた。
「君も少し休め」
「はい」
「本当に?」
「本当に。今日はもう何もしません」
「良い」
彼はそう言って、記録帳を閉じた。
机の上には、ハルム村で引いた短い線の紙と、今日の記録が並んでいる。
線。
採取瓶を支えた右手。
薬指の重さ。
土地の流れ。
少しずつ、戻っている。
人も。
村も。
失われたものも。
ミラは白花のペンダントに触れた。
いつか、この力が何なのか分かる日が来るのかもしれない。
けれど今は、目の前の流れを見つける。
戻ろうとするものを、少しだけ照らす。
それだけでいい。
森の外では、見えない影が動いている。
だが、集落の中には、もうミラとエリオットだけではない。
ハンスがいる。
マルタがいる。
トマがいる。
一人では守れないものを、みんなで守る。
グレイル村で学んだことが、ここでも静かに根を下ろし始めていた。




