初夏の湿地に眠る種 2
処置の準備は慎重に行われた。
トマが周囲を確認し、森番が後方の道を見張る。エリオットは湿地の縁に膝をつき、反応針と採取瓶を用意した。
ミラは湿地の黒ずんだ薬草から少し離れた場所に立つ。
直接触れない。
白花の光を流すのは、種ではなく、その周囲の白い流れ。
ミラは手をかざした。
指先に、小さな花弁のような光が浮かぶ。
それは患者を治療する時よりも淡く、森の朝露に紛れそうなほど静かな光だった。
湿地の土の下で、白い流れが見える。
根から葉へ。
水から土へ。
土から薬草へ。
その途中にある黒い種を避けるように、流れを少しだけ迂回させる。
黒を動かさない。
白を通す。
ミラの額に汗が浮かんだ。
初夏の暑さのせいではない。
力の使い方が、これまでと違う。
人の身体の中よりも、土地の流れは大きい。ゆっくりしているぶん、一度触れると引きずられそうになる。
「ミラ」
エリオットの声。
「呼吸が浅い」
ミラははっとして息を吸った。
「大丈夫です」
「大丈夫ではない時の声だ」
「……少しだけ、流れが大きいです。でも、見えています」
「中止するか」
「まだできます。あと少し」
エリオットは反応針を見る。
針先は薄く曇っているが、震えてはいない。
「一呼吸だけ」
「はい」
ミラは光を細くした。
黒い種を囲むように、白い流れをゆっくり通す。
すると、黒ずんでいた土の周囲に、白い細い輪ができた。
封じるのではない。
孤立させる。
黒い種は一瞬だけ脈打ったが、すぐに静かになった。
湿地の空気が、少し軽くなる。
トマが息を呑んだ。
「薬草の葉が……」
黒ずんでいた薬草の先端に、ごく薄い緑が戻っている。
完全に治ったわけではない。
だが、腐り進むような黒さは止まっていた。
ミラはゆっくり手を下ろした。
「……止まりました。たぶん、広がりは抑えられます」
その瞬間、足元が少しふらついた。
エリオットが左手を伸ばす。
同時に、彼の右手が補助具の中で動いた。
親指、人差し指、中指が、採取瓶の側面を押さえる。
ほんの数秒。
握ったわけではない。
支えただけだ。
けれど、瓶は倒れなかった。
エリオット自身が、右手を見下ろす。
ミラもそれに気づいた。
「今……支えました」
「持ったとは言えない」
「支えました。十分です」
エリオットは何か言おうとして、やめた。
その顔には、信じきれないような静かな驚きがあった。
だが次の瞬間、彼の眉がわずかに寄る。
「薬指が」
「痛みますか?」
「違う。重い」
「重い?」
「そこにあると、分かる。触れている感覚ではないが……指が、ある」
ミラは息を止めた。
薬指。
剣を握る時、力を込めるために必要な指。
黒い封じが深く噛んでいるはずの場所。
ミラはすぐに言った。
「今日はそこまでです」
「ああ」
「絶対に動かさないでください」
「分かっている」
「本当に」
「本当に」
トマが横でぼそりと言った。
「このやり取り、毎回やるのか」
ミラとエリオットは同時に彼を見た。
森番が耐えきれずに笑った。
湿地から戻る道で、森の空気は少し変わっていた。
黒い気配は消えていない。
種も残っている。
けれど、湿地全体へ広がろうとしていた歪みは止まったように感じた。
ミラは疲れていたが、倒れるほどではない。
エリオットが歩幅をかなり落としてくれているからだ。
「私は大丈夫ですよ」
「今は信用しない」
「今は?」
「土地の流れに触れた後だからな」
「……はい」
反論できなかった。
トマは先を歩きながら、ちらりと二人を見る。
「集落の薬草は戻るのか」
「黒ずんだものは捨てた方がいいです。でも、これ以上広がらなければ、新しく生えるものは大丈夫かもしれません」
「湿地の種は?」
「まだ残っています。抜くには準備が必要です」
エリオットが続けた。
「場所は分かった。今は近づく者を制限する。薬草採りは南側だけ。湿地の北は立ち入り禁止。黒ずんだ薬草は布で包んで保管。燃やさない」
「なぜ燃やさない?」
「煙で広がる可能性がある」
トマは短く頷いた。
「ハンスに伝える」
その返事は、もう疑いではなく協力の声だった。




