初夏の湿地に眠る種 1
翌朝、レーンの森には初夏の光が差していた。
空は高く、集落の上には乾いた風が吹いている。けれど森の奥へ一歩近づくと、空気は途端に湿り気を帯びた。葉の裏に残った朝露が光り、苔むした石からは冷たい土の匂いが上がる。
ミラは、外套の袖を少しだけまくった。
「街道はからっとしていたのに、森の中は湿っていますね」
「湿地が近いからだ」
狩人のトマが先を見たまま答えた。
「夏が近づくと、北側はもっと重くなる。雨が続けば、足を取られる場所も増える」
ミラは頷き、採取瓶の入った鞄を抱え直した。
これから向かうのは、昨日見つけた足跡の先。北の湿地の手前だ。
同行するのは、ミラ、エリオット、トマ、それからもう一人の森番だった。集落側ではハンスとマルタが待機し、何かあれば木笛と犬で知らせを回すことになっている。
一人では行かない。
追わない。
日が高いうちに戻る。
それは、昨夜エリオットが集落の者たちと決めた手順だった。
エリオットは、ミラの半歩後ろを歩いている。
右腕は補助具で固定されたままだ。だが、昨日より顔色はいい。初夏の道を歩く体力も、出会った頃とは見違えるほど戻っている。
それでもミラは、彼の補助具に目を向けた。
「暑くありませんか? 補助具の下が蒸れたりしてません?」
「まだ平気だ」
「まだ、ですね。森を出たら確認します」
「ああ」
素直な返事だった。
トマが振り返らずに言う。
「元騎士は治療師に頭が上がらないんだな」
エリオットは真面目に答えた。
「治療に関しては従うべきだ」
「律儀だな」
「よく言われる」
ミラは思わず笑いそうになった。
森の空気は重い。
黒いものの気配もある。
けれど、こうした短いやり取りがあるだけで、息が詰まりすぎずに済んだ。
湿地へ向かう道は、途中から獣道になった。
ぬかるみを避け、木の根を踏み、低い枝をくぐる。トマは迷いなく進むが、ミラにはどこが道なのかも分からない。
エリオットは左手に杖を持ち、足場を確かめながら歩いていた。右腕が使えないぶん、無理な歩幅は取らない。以前なら悔しさを隠して先へ進もうとしたかもしれないが、今は違う。
立ち止まるべき場所で、立ち止まる。
それもまた、旅に慣れてきた証だった。
「ここから先だ」
トマが低く言った。
木々の間が少し開け、湿地が見えた。
浅い水が広がり、ところどころに草が密生している。白い小花をつけた薬草が群れているが、その北側だけ、根元の土が不自然に黒ずんでいた。
ミラは足を止めた。
胸元の白花のペンダントが、じわりと温かくなる。
「……あります」
彼女の声に、エリオットがすぐ反応した。
「黒い種か」
「はい。でも、グレイル村の箱みたいに広がっているわけじゃありません。もっと小さい。けれど、流れを折っています」
ミラは目を閉じた。
水そのものは澄んでいる。
けれど、湿地の土の下で、薬草の根へ向かう白い流れが一か所だけ細く曲がっていた。まるで見えない指で押さえつけられているように。
その中心に、小さな黒い点がある。
種。
そう呼ぶしかなかった。
「抜けるか?」
トマが尋ねた。
ミラはすぐには答えなかった。
抜きたい。
このまま置いておけば、薬草の根が歪み、患者の微熱も続くかもしれない。
けれど、黒い種はあまりにも静かだった。
静かすぎる。
エリオットが低く言った。
「抜けば、仕掛けた者に場所を知らせるかもしれない」
「……私も、そう思います」
ミラはゆっくり頷いた。
「壊すのも危ないです。黒いものが散るかもしれません」
「なら、どうする」
エリオットの問いに、ミラは湿地を見つめた。
黒を剥がすのではない。
本来の流れを探す。
ライヘルの手紙の言葉が、胸の奥に浮かぶ。
「周りの流れを整えます」
「種には触れずに?」
「はい。黒い種を抜かず、周囲の白い流れを通して、そこだけ孤立させる。広がらないように眠らせます」
言ってから、ミラは自分でも驚いた。
まるで、誰かに教えられた言葉のようだった。
けれど夢ではない。
今、自分の中から出てきた言葉だ。
白花のペンダントが、ほんのり光る。
エリオットは彼女を見た。
「できるのか」
「分かりません」
正直に答える。
「でも、やってみます。無理はしません。途中で反応が強くなったら止めます」
「俺が止める」
「お願いします」
トマが二人を見比べた。
「本当に変な二人だな」
森番が小さく笑った。
緊張の中、それでも空気が少しだけ和らいだ。




