複数の視線 3
集落へ戻ると、ハンスとマルタが待っていた。
トマが足跡のことを報告すると、ハンスの顔が険しくなる。
「よそ者か」
「たぶん。湿地へ向かっていた」
エリオットは地面に簡単な図を描いた。
湧き水。
下流。
湿地。
黒ずむ薬草場。
足跡の位置。
「今日の時点で分かるのは、湿地周辺に何かがある可能性が高いということです。ただし、相手が人を誘い込むつもりで足跡を残した可能性もあります」
「罠か」
ハンスが低く言う。
「断定はできません。ですが、森へ入る時は必ずトマさんか、森に慣れた方をつけてください。ミラを一人で呼び出さないこと。患者の急変があっても、まず集落の人が確認する」
マルタが頷く。
「いいね。あたしもそう思う」
ミラは続けた。
「薬草は、北の湿地近くで採ったものと、それ以外で分けてください。黒ずみが出たものは捨てずに、布に包んで見せてください。触る時は手袋を」
「水は?」
「湧き水は今のところ反応なしです。でも、明日も確認します。湿地の水には触らないでください」
ハンスは村人を数人呼び、すぐに手順を伝え始めた。
早い。
グレイル村の時より、ミラはずっと落ち着いてその様子を見ていられた。
自分一人が抱えるのではない。
見つける。
伝える。
分ける。
手順にする。
それが守ることに繋がる。
夕方、ミラは診療所代わりの小屋で熱病の患者をもう一人診た。
黒い霞は薄い。
白い流れは、喉元でわずかに引っかかっている。グレイル村の黒根のように深くはない。
ミラは白花の光を細い露の形に変え、喉の周囲にそっと広げた。
黒を剥がさない。
白い流れが戻る道を、少しだけ照らす。
患者の呼吸が楽になる。
「楽になった……」
「今日はここまでです。明日また診ます」
ミラは手を離した。
すぐにエリオットが水を差し出す。
「飲め」
「はい」
ミラは素直に受け取った。
マルタが横で感心したように言う。
「あんた、止めるのがうまいね」
エリオットは真顔で答えた。
「必要なので」
「治療師の扱いに慣れてる」
「最近、少し」
ミラは水を飲みながら、少しだけ頬を赤くした。
夜、エリオットは集落の外れに立っていた。
見張りではない。
ただ、風を見るためだ。
森から集落へ吹く風。
街道から集落へ入る道。
納屋の影。
薬草小屋の裏。
村人の視線は分かりやすい。好奇心、警戒、感謝。
だが、それとは違う視線がある。
ひとつは距離を取っている。
売れる情報を拾おうとする、軽いがしつこい目。
もうひとつは、もっと静かだ。
感情が薄く、対象を見るというより、動きを測っている。
さらに、森の奥には別の気配がある。
人の視線ではない。
黒いものを通じて、こちらの反応を見ているような、冷たい気配。
エリオットは左手で護符を握った。
一人ではない。
少なくとも二系統。
いや、三つかもしれない。
今の自分では、すべてを斬ることはできない。
右手はまだ紙に線を引いただけだ。
剣など握れない。
ミラを抱えて敵を突破することもできない。
だから、守り方を変えるしかない。
人を頼る。
道を選ぶ。
呼び出しを疑う。
逃げ道を先に見る。
それは弱さではない。
今の自分にできる、騎士の在り方だ。
「元騎士」
背後から声がした。
トマだった。
エリオットは振り返らない。
「トマ」
「何かいるんだな」
「ああ」
「人か」
「人もいる」
トマは少しだけ黙った。
「明日、湿地へ行くなら俺と、もう一人連れていく。森に慣れたやつを」
「助かる」
「あんたは礼を言うのが早いな」
「頼むと決めた相手には言う」
トマは鼻で笑った。
「変な騎士だ」
「元だ」
「そこは律儀なんだな」
エリオットはほんの少しだけ口元を緩めた。
その頃、集落の外れの納屋の影で、二人の男が別々に動いていた。
一人は小間物売り。
ガレス側にもベルトラン側にも情報を売る男。
もう一人は、ベルトランの荘園から送られた観察役。
互いに相手の存在に気づいている。
だが、声はかけない。
同じ獲物を見ているだけで、同じ主人に仕えているわけではない。
森の奥では、黒い小さな種が湿った土の下で静かに脈打っていた。
それを置いた者は、遠い場所で微笑んでいる。
レーンの森沿いの集落は、まだ静かだった。
だが、その静けさの中で、ミラとエリオットを狙う三つの影が、少しずつ距離を詰め始めていた。




