複数の視線 2
森の入口に立つと、空気が変わった。
集落のざわめきが薄れ、葉の擦れる音と、遠くの水音が耳に届く。
ミラは白花のペンダントを握った。
昨日より、少しはっきり分かる。
森には流れがある。
木の根から葉へ。
湿った土から薬草へ。
湧き水から集落へ。
それは人の身体の流れとは違う。もっと大きく、ゆっくりしている。
けれど、その途中に小さな黒い滞りがあった。
「……北側」
ミラは呟いた。
トマがそちらを見る。
「湿地の方だ」
「黒いものは薄いです。でも、流れを邪魔しています」
エリオットが記録帳を開く。
「森全体ではなく、湿地周辺か」
「たぶん。薬草の根に染みる前の、もっと手前……水か、土か」
ミラはそこまで言って、口を閉じた。
焦ってはいけない。
見えたからといって、すぐ手を伸ばしてはいけない。
エリオットが静かに言う。
「今日は場所を絞るだけだ」
「はい」
トマが先に歩き出す。
彼の後ろにミラ。
その半歩後ろ、やや右にエリオット。
右腕が使えない彼は、先頭で切り開くことはできない。
けれど、ミラの背後と横を同時に見られる位置にいる。
それが今の彼の場所だった。
湧き水は、集落から歩いて半刻ほどの場所にあった。
岩の隙間から澄んだ水が流れ、小さな水溜まりを作っている。周囲には薬草が多い。マルタが大事にしている場所だとトマが言った。
ミラは採取瓶に水を取り、反応針をかざした。
針先は澄んだまま。
「湧き水自体は、大丈夫そうです」
トマが安堵したように息を吐く。
エリオットは周囲を見回していた。
「水の下流はどちらへ?」
「集落の西側を通って、北の湿地へ抜ける。湿地の水は飲まないが、薬草場に近い」
「湿地で何か混じっている可能性があるな」
「それなら、北の薬草が黒ずむのも筋が通る」
トマの声が低くなる。
ミラは湧き水の流れを目で追った。
水そのものは澄んでいる。
だが、遠く北へ向かう流れの先で、白い線が一瞬だけ細く折れたように見えた。
そこに、黒い小石のようなものが置かれている感覚。
「種、みたいです」
ミラは言った。
「種?」
エリオットが聞き返す。
「黒い根そのものではなくて、黒いものを育てるための小さな核。まだ浅い。でも、置かれたままなら広がるかもしれません」
トマが険しい顔になる。
「誰かが置いたってことか」
「自然にあるものではないと思います」
ミラの声は静かだった。
グレイル村のことを思い出す。
風と水を使った実験。
人の暮らしを観察材料にした黒い箱。
ここでも、誰かが小さなものを置いている。
試すように。
湿地へ向かう途中、トマが急に足を止めた。
片手を上げ、全員を止める。
エリオットもすぐにミラを手で制した。
「何か?」
ミラが小声で尋ねる。
トマはしゃがみ込み、柔らかい土を指差した。
「足跡」
そこには、確かに靴跡があった。
集落の者が履く柔らかな森靴ではない。底が硬く、街道歩き用の靴。
しかも、湿地へ向かっている。
エリオットは目を細めた。
「昨日の赤土の靴か」
「似てる」
トマは周囲を見た。
「戻った跡がない」
「湿地へ入ったか、別の道へ抜けたか」
エリオットは少し考えた。
追うべきではない。
彼の左手は杖を握っている。右手は補助具の中。ミラを連れて、正体不明の足跡を追うのは危険すぎる。
「ここで止まる」
エリオットは言った。
ミラは一瞬、湿地の方を見た。
黒い滞りは、もう少し先にある。
でも、そこで踏み込めば相手の思う壺かもしれない。
「はい。今日はここまでにします」
トマが少し意外そうにミラを見た。
「いいのか? 気になるんだろ」
「気になります。でも、一人で行ってはいけない場所です」
ミラははっきり言った。
その言葉に、エリオットがわずかに表情を和らげた。
「良い判断だ」
「今日は私の言葉です」
「ああ」
トマは二人を見比べ、ふっと笑った。
「変な二人だな」
「よく言われます」
ミラが答えると、トマは今度こそ声を出さずに笑った。




