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複数の視線 1

 レーンの集落で迎えた朝は、森の匂いが濃かった。

 湿った土。苔。若葉。干された薬草の青い苦み。

 ハルム村の開けた畑とは違い、この集落ではどこにいても森がすぐ背後に立っているようだった。

 ミラは、村長ハンスの家の一室で薬草鞄を整えていた。

 今日は森の入口と湧き水、そして黒ずんだ薬草が採れたという北側の湿地周辺を確認する予定だ。

 ただし、奥までは入らない。

 昨日、エリオットにそう言われている。

「反応針、二本。白石粉、小袋三つ。採取瓶、五本。浄化布……」

 ミラが確認していると、入口側に立っていたエリオットが静かに言った。

「浄化布はもう一枚」

「昨日も入れましたよ?」

「森の中では余るくらいでいい」

「……はい」

 ミラは素直に一枚追加した。

 反論しないミラを見て、エリオットは少しだけ目を細めた。

「今日は素直だな」

「私も学びます」

「良い傾向だ」

「それ、私の言葉です」

「便利だからな」

 いつものやり取り。

 けれど、その後のエリオットの顔は、少し硬かった。

 ミラは手を止める。

「何か、ありますか?」

 エリオットはすぐには答えなかった。

 窓の外へ視線を向ける。集落の道では、朝の水汲みをする女たちが行き交い、木こりたちが斧を担いで森とは反対側の作業場へ向かっている。

 普通の朝に見える。

 だが、彼の目は別のものを追っていた。

「妙な視線がある」

 エリオットは低く言った。

 ミラの指が、薬草袋の紐を握ったまま止まる。

「密偵ですか?」

「断定はできない」

「いつから?」

「グレイル村を出てから、時々。ハルム村でもあった。ここにもいる」

 ミラは息を呑んだ。

 エリオットはすぐに続ける。

「君を怖がらせるために言っているんじゃない。動き方を慎重にするためだ」

「……はい」

「今分かるのは、村人の警戒とは違う目があるということだけだ。しかも一つではない」

「一つではない……」

「同じ雇い主とも限らない」

 それ以上は言わなかった。

 ガレス。

 ベルトラン。

 セヴラン。

 ミラは名を思い浮かべかけ、すぐに符丁を思い出した。

 西塔。

 黒鴉。

 そして、まだ名をつけていない王宮の影。

「森へは、絶対に一人で入りません」

「そうしてくれ」

「患者さんに呼ばれても、エリオットさんか村の人に確認してもらいます」

「ああ」

 エリオットは少しだけ肩の力を抜いた。

 その顔を見て、ミラは思う。

 彼は剣を握れない。

 けれど、こうして危険を見ている。

 自分一人で守ろうとせず、村の人を頼ろうとしている。

 それが、今のエリオットの守り方なのだ。

     

 森の入口には、狩人のトマが待っていた。

 弓を背負い、腰には短刀。足元は柔らかい革靴で、歩いてもほとんど音がしない。

 彼はエリオットを見るなり言った。

「昨夜、外れに知らない足跡があった」

 エリオットの表情は変わらなかった。

「何人だ」

「少なくとも二人。ひとりは街道の赤土をつけた靴。もうひとりは森に慣れてる。足跡を消そうとしてた」

 ミラの背筋が冷える。

 エリオットは短く頷いた。

「追ったか?」

「追ってない。昨日あんたが言った。怪しい者を見ても追うなと」

「助かる」

 トマは少しだけ鼻を鳴らした。

「礼を言われることじゃない。森で不用意に追えば、追う側が獲物になる」

「よく分かっている」

「こっちの台詞だ。元騎士」

 二人は短く視線を交わした。

 不思議な信頼が、その間に生まれているようにミラには見えた。

 エリオットはトマに向かって言った。

「今日は森の入口、湧き水、黒ずんだ薬草の採取場所の手前まで。奥へ入らない。ミラが何かを感じても、追わない」

「分かった」

「村へ戻る合図は?」

 トマは首に下げた木笛を見せた。

「短く二回で近くの者を呼ぶ。長く一回で全員戻れ。森の奥で鳴らせば、集落の犬が吠える」

「いい」

 エリオットは少し考え、ミラを見る。

「君も覚えておいてくれ」

「短く二回で近くの人、長く一回で戻る、ですね」

「ああ」

 グレイル村で作った手順が、ここでも形を変えて生きている。

 ミラはそれを感じて、小さく頷いた。

     

 



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