森沿いの集落へ 1
ハルム村を発つ朝、ミラは村長宅の広間をもう一度見回した。
昨日まで簡易診療所として使っていた場所には、畳まれた寝台と、使い終えた包帯の桶、薬草茶の香りが残っている。重い病の村ではなかった。黒い根も見つからなかった。
それでも、この村で得たものは小さくない。
患者の身体の中にある、本来の白い流れを見る感覚。
エリオットの右手が紙に触れ、短い線を引いたこと。
ライヘルから届いた符丁の手紙。
どれも、次へ進むためのものだった。
「治療師さん、本当に助かりました」
村長が深々と頭を下げる。
「こちらこそ、お世話になりました。腰痛の方は、急に動かず、温湿布を続けてください。咳の子は、夜に冷えないように。薬草茶は三日分あります」
「はい。言われた通りにします」
村長の妻が、布に包んだ焼き菓子を差し出した。
「道中で食べてください。お礼には足りませんけど」
「ありがとうございます」
ミラが受け取ろうとすると、横からエリオットが左手を伸ばした。
「俺が持つ」
「でも、右腕が」
「左手で持てる。君の鞄はもう薬草で重い」
あまりにも自然に言われ、ミラは少しだけ目を瞬いた。
村長の妻がくすりと笑う。
「いい助手さんですねえ」
エリオットは一瞬だけ黙った。
それから、真面目に答えた。
「見習いです」
「まあ、律儀なこと」
広間に柔らかな笑いが広がった。
ミラもつられて笑う。
最初は少しぎこちなかった“助手見習い”という言葉が、いつの間にか旅の中に馴染んできている。
エリオット自身も、もう完全には否定しない。
それがなんだか、少し嬉しかった。
ハルム村を出ると、道は少しずつ森へ近づいていった。
畑の広がる丘陵地を抜け、背の高い草が増え、やがて道の両脇に低い木々が現れる。風は土の匂いから、湿った葉と苔の匂いへ変わっていく。
レーンの森沿いの集落は、リンドルから西へ向かう街道の脇道にある。
薬草採りと木こり、狩人が多く暮らす小さな集落だと聞いていた。近くの森では良質な薬草が採れるが、ここ数週間、薬草の育ちが悪く、軽い熱病のような症状も出ているらしい。
ミラは歩きながら、ライヘルの手紙を思い出していた。
――黒いものを剥がすのではなく、本来の流れを探してください。
森にも、流れはあるのだろうか。
人の身体の中に見えた白い流れ。
エリオットの右腕に残っていた途切れた流れ。
それと同じように、水や土や薬草にも、戻ろうとする道があるのだろうか。
「疲れたか」
エリオットの声で、ミラは顔を上げた。
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に。考えごとをしていただけです」
「なら、少し休む」
「え?」
「考えごとをしながら歩くと、足元を見落とす」
そう言われて、ミラは自分が小石につまずきかけていたことに気づいた。
エリオットは道の脇にある倒木を示す。
「ここで水を飲む」
「……はい」
反論できなかった。
彼は本当に、よく見ている。
ミラは倒木に腰を下ろし、水袋を受け取った。
「エリオットさんも飲んでくださいね」
「ああ」
彼は左手で水袋を持ち、ゆっくり飲む。
右手は補助具に包まれたまま、膝の上に置かれている。
「右手はどうですか?」
「痛み三。熱は弱い。親指、人差し指、中指の感覚はある」
「紙に線を引いた後、悪化は?」
「ない」
「よかった」
ミラはほっと息を吐いた。
エリオットは自分の右手を見下ろす。
「今日は試さない」
「はい。今日は移動日ですから」
「ライヘル殿の手紙にも、再現確認をしすぎるなとあった」
「兄さんの言うことは聞くんですね」
「正しいからな」
「私の言うことも正しい時があります」
「ある」
「ある、ですか」
「多い」
少し間を置いて付け足された言葉に、ミラは思わず笑ってしまった。




