戻る道を照らす手 3
夕方、診療が終わった後、ミラはエリオットの右手を診た。
ライヘルの手紙にあった通り、再現確認をしすぎない。
今日は「紙を押さえる」だけ。
机の上に、白い紙を一枚置く。
「痛みは?」
「三」
「熱は?」
「手首から肘。昨日より弱い」
「親指、人差し指、中指の感覚は?」
「ある。薬指はまだ遠い。小指は分からない」
「今日は、紙に触れるだけです。押さえようとしなくていいです」
「ああ」
エリオットは右手をゆっくり動かそうとした。
補助具が支え、ミラが手首の位置を調整する。
彼の指先が紙に触れた。
「分かりますか」
「……分かる」
「どの指ですか」
「親指、人差し指、中指」
「紙の感触は?」
「薄い。少し冷たい」
ミラの胸がじんと熱くなる。
けれど、ここで喜びすぎてはいけない。
「では、そこで止めます」
「押さえないのか」
「今日は触れるだけです」
「分かった」
エリオットは素直に頷いた。
その素直さに、ミラは少しだけ目を細める。
「以前なら、もう少しやると言っていたかもしれませんね」
「言ったかもしれない」
「今は言わないんですね」
「戻りかけたものを壊したくない」
その言葉は静かだった。
ミラは小さく頷く。
「はい。私もです」
紙に触れた右手は、すぐに補助具の上へ戻された。
ほんの数秒。
それでも、右手が紙に触れた。
エリオット自身も、その事実をじっと受け止めているようだった。
「ミラ」
「はい」
「一線だけ、引けるだろうか」
ミラは少し考えた。
ライヘルの手紙には、紙を押さえる、布に触れる、軽いものを支える程度とあった。
線を引くのは少し先かもしれない。
でも、筆ではなく太い木炭なら。
補助具で支え、力を入れず、ミラが紙を固定し、ほんの短く。
「一線だけです」
ミラは言った。
「痛みが増えたらすぐ止めます」
「ああ」
太い木炭を、エリオットの右手に添える。
握るのではなく、指先に挟むようにする。
薬指と小指は使えない。
親指、人差し指、中指だけで、木炭に触れる。
ミラは紙を押さえた。
「動かすのは、ほんの少しです」
エリオットは息を整えた。
右手が、ゆっくりと動く。
紙の上に、震えた短い線が引かれた。
たったそれだけ。
文字でもない。
名前でもない。
剣を握るには、あまりにも遠い。
けれど、エリオットはしばらくその線を見つめていた。
ミラも同じように見つめた。
「……引けました」
ミラの声は、少し震えていた。
エリオットは、静かに息を吐いた。
「線だな」
「はい」
「ぐにゃぐにゃだ」
「線です」
「読めるものではない」
「でも、分かります。これはエリオットさんが右手で引いた線です」
エリオットは黙った。
その横顔に、深い感情が過ぎる。
喜び。
恐れ。
信じたい気持ち。
信じるのが怖い気持ち。
ミラは、その線の横に小さく日付を書いた。
――右手で初めて線を引く。
――親指、人差し指、中指使用。痛み三から変化なし。
――追加不可。
エリオットがそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「追加不可まで書くのか」
「書きます。私もエリオットさんも、調子に乗らないように」
「正しいな」
「正しいものは正しいです」
ミラが返すと、エリオットはほんの少し笑った。
その夜、ハルム村の外れで、小間物売りの男は報告書を書いていた。
若い治療師。
白い光の変化あり。
患者に応じて光の形が変わる。
右腕を負傷した男、右手で紙に線を引いた可能性あり。
回復進行中。
同行関係は治療師と助手の形。
ただし男は周囲への警戒を怠らず、元騎士としての習慣あり。
男はそこまで書き、少し迷った。
報告先は二つある。
ガレス側。
ベルトラン側。
同じ情報を渡せば、それぞれ違う判断をするだろう。
片方は再起不能を望む。
もう片方は、消すことを望む。
男は小さく笑った。
情報は、売り先が多いほど価値が上がる。
彼は報告書を二通に分けた。
一通には、右手の回復を強調した。
もう一通には、治療師の白い力の変化を強調した。
どちらがより高く買うかは、すぐに分かる。
村長宅の客室で、ミラは手紙を書いていた。
今度は、符丁表を横に置いて。
――白花の光に変化あり。
――黒い根だけでなく、本来の流れを見る感覚が出ています。
――剣の枝は、親指、人差し指、中指に感覚あり。今日、紙に短い線を引きました。
――追加確認はしていません。本当です。
――ハルム村の治療は順調。黒い根は見られません。
そこまで書いて、ミラは少し迷った。
そして一文を足す。
――この力が何なのか、まだ分かりません。でも、怖いだけではなくなってきました。記録すれば、少し扱える気がします。
封をする前に、エリオットが確認した。
「危険な名はないな」
「はい」
「移動先は?」
「次はレーンの集落、と書こうとして消しました。符丁だとどう書けばいいでしょう」
「森沿いの薬草場、とだけでいい。具体名は別便か、口頭で」
「なるほど」
ミラは修正した。
エリオットは満足そうに頷く。
「良い」
「本当に助手ですね」
「見習いだ」
「では、助手見習いさん。薬草茶を飲みますか?」
「君が先だ」
「……はい」
二人は向かい合って薬草茶を飲んだ。
机の上には、エリオットが右手で引いた短い線が残っている。
ミラにとって、それはただの線ではなかった。
黒い封じの奥に、まだ戻ろうとする流れがある証。
そして、自分の手がその流れを見つけられるかもしれないという、小さな希望だった。
夜の外では、二人を追う目が動いている。
けれど今、部屋の中にある白い灯りは、確かに少し強くなっていた。




