戻る道を照らす手 1
ハルム村の二日目の朝は、鳥の声で始まった。
グレイル村のような反応針の震えも、坑道から流れてくる灰色の風もない。窓を開ければ、畑の土と干し草の匂いが入り込んでくる。
ミラは、寝台の上でしばらく天井を見つめていた。
昨日、患者の中に見えた白い流れ。
黒い棘でも、黒い根でもない。
その人の身体が本来持っている、戻ろうとする流れ。
それを見た瞬間の感覚が、まだ指先に残っている。
怖くはなかった。
けれど、不思議だった。
自分の力が、どこか知らない場所へ一歩踏み出したような気がした。
「起きているか」
隣室から、エリオットの声がした。
「はい」
「体調は」
「大丈夫です」
少し間が空いた。
「その言葉は信用しない」
「……頭が少し重いです。でも、昨日よりは楽です」
「それなら良い」
ミラは小さく笑った。
最近、彼はずいぶん細かく体調を聞くようになった。助手見習いというより、監督役に近い。
けれど、不思議と嫌ではない。
心配されているというより、二人で旅を続けるための確認なのだと分かるからだ。
朝食後、村長宅の広間には昨日診られなかった患者が集まっていた。
一番最初に来たのは、咳が長引いている子どもだった。
年は七つか八つほど。母親に手を引かれ、少し不安そうにミラを見上げている。
「怖くないですよ」
ミラが膝を折って目線を合わせると、子どもはこくりと頷いた。
胸に手をかざす。
黒い反応はない。
ただ、肺の周りに熱がこもり、呼吸の流れが少し乱れていた。
昨日の白い流れとはまた違う。
赤く熱を持つ場所に、白い露が降りるような感覚。
ミラが治癒魔法を流すと、指先から淡い光がこぼれた。光は花弁ではなく、小さな水滴のようになって、子どもの胸元へやわらかく広がる。
「冷たい?」
ミラが尋ねると、子どもは目を丸くした。
「ううん。気持ちいい」
母親がほっと息を吐く。
エリオットは入口近くの椅子で記録していた。
――長引く咳。黒反応なし。胸部に熱の滞り。白花光、露状に変化。冷却ではなく鎮静に近い。
ミラはちらりとそれを見た。
「エリオットさん、書くのが本当に早くなりましたね」
「左手が慣れてきた」
「右手が戻ったら、両方で書けそうですね」
言ってから、ミラは少しだけ口をつぐんだ。
期待しすぎてはいけない。
けれどエリオットは、以前のようにその言葉から目を逸らさなかった。
「まずは右手で紙を押さえるところからだな」
静かな返事だった。
ミラは頷いた。
「はい。そこからです」
午前の診療が終わる頃、リンドルからの小さな便が届いた。
薬草と一緒に、封書が二通。
ライヘルからだった。
ミラは封を見た瞬間、少し背筋を伸ばす。
「兄さんからです」
エリオットが記録帳を閉じた。
「読もう」
二人は広間の隅に移動し、封を開いた。
まず出てきたのは、短い手紙。
――ミラへ。
――今後、危険な固有名、術式名、移動先、証拠に関する内容は符丁を使うようにしてください。リンドルの魔道具屋は信頼できますが、そこへ至る道や、そこから先の道が安全とは限りません。
ミラは小さく息を呑んだ。
「やっぱり……平文だと危ないんですね」
「そうだな」
エリオットは落ち着いていた。
手紙には符丁表が添えられている。
黒鴉。
西塔。
剣の枝。
黒い根。
第三の荷札。
運び手。
白花。
水の道。
ミラは符丁表をじっと見つめた。
「覚えないと」
「全部を今覚えなくていい。表を写して、記録帳の別紙に挟む」
「でも、もし落としたら」
「符丁だけなら、意味はすぐには分からない。問題は、符丁表と本文を一緒に置くことだ」
「なるほど」
エリオットが淡々と指摘する。
ミラは少し感心した。
「エリオットさん、こういうの慣れてますね」
「騎士団でも、遠征時には簡単な符丁を使うことがある」
「助手見習いだけじゃなくて、元騎士の知識も役に立っていますね」
「役に立つならいい」
そう言う彼の声は、ほんの少しだけ穏やかだった。
もう一通は、エリオット宛てだった。
彼は差出人を見て眉を動かす。
「俺に?」
「兄さん、何を書いたんでしょう」
エリオットが封を開く。
読み進めるうちに、彼の表情が少しだけ真面目になった。
ミラは気になって身を乗り出す。
「何て?」
エリオットは一部を読み上げた。
「ミラは危険な情報も正確に書こうとすると思います。今後、危険な名や移動先、術式に関する内容は符丁で書くよう補助してください」
「……兄さん」
「また、右手について。感覚が戻り始めた時こそ、再現確認をしすぎないでください。紙を押さえる、布に触れる、軽いものを支える。この程度から記録をお願いします。剣を握ることは、まだ考えないでください」
そこでエリオットは一度、紙から目を離した。
ミラも静かになった。
ライヘルは、遠く王都にいながら、こちらの危うさをよく見ている。
最後にエリオットは、少しだけ声を低くして読んだ。
「妹は、無理を止める人の言葉なら聞きます。どうか、止めてください」
ミラは頬を膨らませた。
「兄さん、余計なことを」
「正しい」
「エリオットさんまで」
「正しいものは正しい」
そう返されると、もう反論できない。
けれど、ミラは少しだけ安心もしていた。
王都にいる兄は、エリオットを信頼し始めている。
それが、手紙の端々から伝わってきた。




