白い流れを見る 2
夕方、最後の患者を診終えると、ミラはいつものように次の患者を呼ぼうとした。
しかし、エリオットが先に記録帳を閉じた。
「今日はここまでだ」
「でも、まだ一人」
「軽症だ。明日の朝でいい」
「でも」
「今日、君の力に変化が出た。いつもより消耗の種類が違う可能性がある」
ミラは言葉を止めた。
その通りだった。
身体はまだ動く。
でも、頭の奥が少しぼんやりしている。黒いものを扱った時とは違う疲れ方だ。
「……分かりました」
素直に言うと、エリオットは少しだけ驚いた顔をした。
「何ですか」
「いや」
「私だって学びます」
「良い傾向だ」
「それは私の言葉です」
「便利だからな」
そのやり取りに、村長宅の女主人がくすりと笑った。
ミラは少し顔を赤くする。
エリオットは何も気づかないふりで、淡々と記録帳を鞄にしまった。
その夜、村長宅の客室で、ミラはエリオットの右手を診ることになった。
今日の治療で、白い流れが見えた。
なら、エリオットの腕にも見えるかもしれない。
けれど、二人とも慎重だった。
無理に黒い封じを刺激してはいけない。
ミラは机の上に反応針と白石布を置いた。
「痛みが増えたらすぐ止めます」
「ああ」
「黒いものを浮かせる治療はしません。今日は見るだけです」
「分かった」
「動かそうとしないでください」
「分かっている」
エリオットは補助具を外さず、手首側の固定だけを少し緩めた。
ミラは右手の上にそっと手をかざす。
触れない。
白花のペンダントが、胸元で淡く温かくなる。
ミラは目を閉じた。
黒いものは、確かにある。
エリオットの右腕に巻きつくように、深く、硬く、古い棘のように。
けれど、その奥。
黒い封じの下に、細い白い流れがあった。
途切れ途切れで、弱い。
けれど、確かにある。
手首から親指へ。
人差し指へ。
そして、中指の根元へ。
「……見えます」
ミラは囁いた。
エリオットは息を詰めた。
「黒か」
「黒もあります。でも、その奥に白い流れがあります。エリオットさんの、本来の流れ」
ミラの指先に、白い花弁の光が浮いた。
黒を動かさないように。
白い流れだけを、ほんの少しなぞる。
親指。
人差し指。
中指。
エリオットの眉がかすかに動く。
「中指が……」
「痛いですか?」
「違う」
彼はゆっくり息を吐いた。
「触れられているのが、分かる」
ミラの手が止まった。
「中指も?」
「ああ。遠いが、分かる」
胸の奥が熱くなる。
けれど、喜びで手を進めてはいけない。
ミラはすぐに光を引いた。
「今日はここまでです」
「早いな」
「早いくらいでいいです」
「そうだな」
エリオットは素直に頷いた。
その横顔には、静かな驚きが残っている。
ミラは記録帳を開いた。
――右手診察。黒い封じの奥に白い本来流を視認。
――親指、人差し指に加え、中指根元まで微弱な白流あり。
――白花光で黒を刺激せず、白流のみ確認。
――中指に触覚反応あり。痛み増加なし。
――追加治療禁止。経過観察。
書き終えると、エリオットが自分の右手を見ていた。
補助具に包まれた手。
まだ剣は握れない。
荷物を持つこともできない。
けれど、今、中指に触れられていることが分かった。
それは小さな一歩だった。
でも、確かな一歩だった。
「ミラ」
「はい」
「この手は、まず君の記録帳を押さえるところから戻るのかもしれないな」
ミラは一瞬、言葉を失った。
それから、ふっと笑った。
「いいじゃないですか。助手の手として、立派です」
「騎士の手としては、まだ遠い」
「でも、戻る道は見え始めています」
エリオットは静かに頷いた。
「ああ」
同じ頃、ハルム村の外れにある小さな納屋の影で、一人の男が村長宅の灯りを見ていた。
旅の小間物売りを装った男だった。
昼間、村で針や糸を売り歩き、ついでに旅治療師の評判を聞いた。
若い娘。
白い光を使う。
右腕を負傷した大柄な男を連れている。
その男は、記録をつけている。
元騎士のような目をしている。
そして、村の誰かが言った。
「今日、その男の右手の指が少し動いたらしいよ」
男はその言葉を胸にしまった。
報告すべきことは増えた。
対象は西へ進んでいる。
右腕の回復あり。
治療師の白い力に新たな変化あり。
男は夜の闇へ歩き出した。
その報告が誰の手へ渡るか。
ガレスか。
ベルトランか。
あるいは、そのどちらにも。
ハルム村の穏やかな夜の裏で、二人を追う目は、静かに数を増やし始めていた。




