白い流れを見る 1
ハルム村は、穏やかな村だった。
少なくとも、グレイル村のような重苦しい灰色はない。
なだらかな丘に畑が広がり、低い石垣の間を細い道が縫うように通っている。家々の屋根には干し草が積まれ、軒先には洗った布が揺れていた。
ミラは村の入口で、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「黒い気配は……強くなさそうですね」
隣でエリオットが、左手で護符を押さえた。
「少なくとも、グレイル村のようなものはない」
「よかった」
「油断はしない」
「はい」
ミラは素直に頷いた。
以前なら、「分かっています」と少し強がったかもしれない。けれど今は、エリオットのその言葉が心強い。
彼は剣を持てない。
右腕もまだ補助具の中だ。
それでも、村へ入る前に風向き、道、井戸の場所、人の視線を確かめている。そういう何気ない動きの中に、彼の騎士らしさはまだ残っていた。
「行きましょう」
「ああ」
二人はハルム村へ入った。
ハルム村の依頼は、拍子抜けするほど普通だった。
畑仕事で足をひねった若者。
腰痛に悩む老人。
古い骨折の後遺症で手首が痛む女性。
咳が長引いている子ども。
黒い棘も、黒い根も、少なくとも表面には見えない。
ミラは村長宅の広間を借りて、簡単な診療所を作った。窓を開け、寝台を二つ並べ、薬草と包帯を置く。
エリオットは入口近くの椅子に座り、左手で記録帳を開いた。
「一人目、畑仕事中の足首捻挫。発熱なし。黒反応なし」
彼がそう書き始めると、患者の若者が目を丸くした。
「騎士様が記録を?」
エリオットは一瞬だけ黙った。
それから、落ち着いて答えた。
「今は、治療師の助手見習いだ」
若者はさらに目を丸くした。
ミラは思わず笑いそうになり、慌てて表情を引き締める。
「では、足を見せてください」
普通の捻挫だった。
腫れはあるが、骨は折れていない。冷却と固定、数日の安静で治る。
ミラが治癒魔法を流すと、患部を包むように淡い白い膜が広がった。
ふわりと、温かい布をかけるような光。
ミラはその光を見て、ほんの少し首を傾げた。
いつもと違う。
治癒魔法そのものは、これまでも使っていた。
けれど今は、ただ魔力を流しているのではない。
患部が求める形に、光が自然と変わっている気がした。
「……膜みたい」
ミラが小さく呟く。
エリオットが顔を上げた。
「何が?」
「光です。今、怪我の場所を包む形になりました」
「意識して?」
「いえ。勝手に……というより、足首がそうしてほしいと言っているみたいに」
患者の若者は不思議そうに二人を見ている。
エリオットは記録帳へ書き加えた。
――捻挫治療時、白花光が膜状に変化。術者の意識的形成ではない可能性。
「記録するんですね」
ミラが言うと、エリオットは当然のように答えた。
「変化は記録する」
「本当に助手ですね」
「見習いだ」
その返事が真面目すぎて、今度こそミラは少し笑った。
二人目の患者は、腰痛に悩む老人だった。
長年畑仕事をしてきたせいで、腰と膝に負担がかかっている。黒いものではなく、年月と労働が積み重なった痛みだ。
ミラが背中に手をかざすと、今度は光がゆっくりと筋に沿って流れた。
細い糸のように。
けれど黒根をほどく時のような鋭さではなく、固まった土を温める水のような柔らかさ。
老人が目を細める。
「ああ……温かいねえ」
「痛む場所を無理に動かさないでくださいね」
「はいはい。治療師さんは若いのに、うちの孫よりずっとしっかりしてる」
ミラは少し照れた。
エリオットが記録帳に書く。
――慢性腰痛。白花光、筋状に流れる。熱感あり。急激な治癒ではなく緩和。
「エリオットさん、書くのが早くなりましたね」
「左手に慣れてきた」
「旅にも?」
そう聞くと、エリオットは少し考えた。
「たぶん」
短い返事だったが、ミラには十分だった。
確かに、彼は以前より歩けるようになっている。
休憩の取り方を覚え、痛みを申告し、無理をする前に止まるようになった。
ただ回復しただけではない。
自分の身体との付き合い方を、少しずつ取り戻しているのだ。
午後、手首の痛みを訴える女性が来た。
昔、荷を落として骨を折ったことがあるという。骨自体は治っているが、天気が悪くなると手首が重く、指先が痺れるらしい。
ミラは手首に触れた。
黒いものはない。
けれど、そこにある魔力の流れが、少し歪んでいるように見えた。
見えた。
ミラは息を止めた。
今までは、触れて、探って、黒いものを浮かせて初めて異常が分かった。
けれど今は違う。
手首の奥に、薄く白い流れがある。
本来なら指先へまっすぐ流れていくはずのものが、古い傷跡のところで細く曲がり、少し滞っている。
黒ではない。
病でもない。
その人の身体が持つ、本来の流れ。
「ミラ?」
エリオットの声で、ミラは我に返った。
「……見えます」
「黒いものか」
「いいえ」
ミラはゆっくり首を横に振った。
「白い流れです。この人の本来の流れ。古い傷のところで、少し引っかかっています」
女性が不安そうに手を見る。
「悪いものなんですか?」
「いいえ。悪いものではありません。昔の怪我で、身体が少し動き方を忘れているみたいな感じです」
ミラは自分でも不思議な説明だと思った。
けれど、そうとしか言えなかった。
白花の光を流す。
すると、光は先ほどのような膜でも筋でもなく、細い露の粒のようになって、歪んだ流れの周りに集まった。
無理に押し流さない。
ただ、流れが自分で道を思い出すように、周囲を潤す。
女性が小さく息を呑んだ。
「指先が……温かい」
「動かしてみてください。ゆっくり」
女性は指を曲げた。
ぎこちなかった動きが、少しだけなめらかになる。
「痛くない」
涙ぐむ声だった。
ミラはほっと息を吐いた。
エリオットは記録を止めて、じっとミラの手元を見ていた。
「今のは、黒いものを浮かせたわけじゃないな」
「はい」
「流れを見つけた?」
「たぶん」
ミラは自分の手を見つめた。
指先に、白い花弁のような光が一瞬だけ残っている。
すぐに消えた。
「私、黒いものだけじゃなくて、本来の流れも見えるようになってきたのかもしれません」
エリオットは少し黙った。
そして、静かに記録帳へ書いた。
――古傷による手首痛。白い本来流の視認あり。黒反応なし。白花光、露状に変化。流れの滞りを緩和。
その文字を見て、ミラは胸の奥が震えるのを感じた。
治すだけではない。
悪いものを追い出すだけでもない。
その人の中にある、本来の流れを見つける。
それは、今までのミラにはなかった感覚だった。




