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王宮の翳り 1

 王宮の朝は、静かだった。

 白い石の回廊には磨き上げられた光が落ち、壁際に並ぶ銀の燭台には王家の紋章が刻まれている。庭園では侍従たちが花の手入れをし、遠くの礼拝堂からは小さな鐘の音が響いていた。

 すべてが整っている。

 何も乱れていない。

 けれど、その静けさの奥で、確かに何かが軋み始めていた。

 王宮儀典局の一室で、イレーネ・ヴァイスは二年前の誓剣式記録簿を閉じた。

 革表紙の記録簿には、すでに保全印が押されている。騎士団長アルベルト・レーヴェンが照会した記録の写しも、王宮控えとして別に封じた。

 ――第七番。試し石内部に微光。魔力灯反射の可能性。要確認。

 その一文が、今になって重くなっている。

 イレーネは部下へ言った。

「この記録簿は、今後私の許可なく閲覧させないでください」

「承知しました」

「騎士団から再照会があった場合は、私へ直接」

「はい」

 部下が退室した後、イレーネは窓の外を見た。

 騎士団長が自ら記録を見に来た。

 それだけなら、職務の範囲だ。

 だが、彼の顔色はただの照合ではなかった。

 何かを思い出そうとしている者の顔だった。

 試し石。

 微光。

 若い騎士。

 もし、あれが本当に魔力灯の反射ではなかったのなら。

 イレーネは小さく息を吐いた。

「守護騎士……」

 その言葉は、部屋の中に落ちる前に消えた。

 王宮に仕える者なら、誰もが伝承として知っている。

 王家の光を守る白き剣。

 王都の闇を払い、腐敗を断つ者。

 美しい物語。

 けれど、美しい物語ほど、宮廷では厄介な意味を持つ。

     

 その日の午後、王宮西棟の私室に、一人の下級貴族が足早に入っていった。

 名はリュシアン・ドレ。

 王宮儀典局に親戚を持ち、文書管理や儀式記録の周辺で細かな噂を拾うことを得意とする男だった。

 彼が向かった先は、ベルトラン・ゼーヴァルト侯爵の控え室だった。

 ベルトランは王宮顧問会議の一員であり、古くから王家に仕える名門侯爵家の当主である。

 表向きには、忠臣。

 だが、その忠誠は古い絵画に塗られた金箔のようなものだった。遠目には輝いて見えるが、指で擦れば下から別の色が現れる。

「閣下」

 リュシアンが膝をつく。

 ベルトランは窓辺の椅子に座り、薄い茶を飲んでいた。年は五十を少し過ぎたあたり。整えられた銀髪、細い顎、柔らかな物腰。いかにも宮廷で長く生きてきた男の穏やかさがある。

 しかし、その目は冷たかった。

「何か」

「王宮儀典局で、二年前の新任騎士誓剣式の記録が照会されました」

 ベルトランの指が止まる。

 茶杯の縁に、わずかな音が立った。

「誰が」

「騎士団長アルベルト・レーヴェン閣下です」

 ベルトランは無言だった。

 リュシアンは続ける。

「王宮側控えの写しを取りました。第七番の記録を確認したようです」

「第七番」

「エリオット・バーンスタン。地方出身の若い騎士です。当時、試し石内部に微光あり、魔力灯反射の可能性、要確認と注記されています」

 ベルトランはゆっくり茶杯を置いた。

「その記録は、騎士団側で処理済みだったはずだ」

「はい。騎士団記録室から、魔力灯の反射、異常なしとの回答が出ています。承認印はヴィクトル・グレイン卿」

「それを、今さらアルベルトが掘り返した」

「そのようです」

 沈黙が落ちた。

 窓の外では、庭園の噴水が白く光っている。

 平穏な王宮。

 だが、ベルトランの内側では、古い帳がめくれ始めていた。

 守護騎士。

 伝説であればよかったもの。

 王家の正統性を、古臭い神話で補強する白い剣。

 王家が弱れば、貴族が国を動かす。

 王家が象徴を失えば、顧問会議の声は強くなる。

 王家が現実の政治に縛られれば、古参貴族の利権は守られる。

 それなのに、守護騎士などというものが現れればどうなる。

 民は喜ぶ。

 王宮は沸く。

 王家の光が戻ったと、愚かな詩人たちが歌い出す。

 そして、光は汚れを照らす。

 ベルトランは静かに言った。

「イレーネ・ヴァイスは?」

「記録を正式に保全したようです」

「余計なことを」

 声は柔らかかった。

 柔らかいからこそ、リュシアンは背筋を強張らせた。

「儀典局へ圧をかけますか」

「今はしない」

 ベルトランは即答した。

「この段階で動けば、こちらが記録を恐れていると知らせるだけだ。イレーネは硬い女だ。下手に触れば、王宮法務へ記録を移す」

「では」

「まず、どこまで掘られているかを知る」

 ベルトランは立ち上がった。

「ガレスは何をしている」

 問いというより、独り言に近かった。

 二年前、試し石の件は騎士団側で沈めたはずだった。

 アルベルトには霞をかけたはずだった。

 エリオット・バーンスタンは右腕を壊し、故郷へ戻した。

 それで終わったはずだった。

 だというのに。

「地方でその騎士の名が再び出ているという噂もあります」

 リュシアンが恐る恐る言った。

「何?」

「若い旅治療師とともに、リンドル方面に現れたとか。確証はありません」

 ベルトランの目が細くなる。

 旅治療師。

 ガレスから断片的に聞いていた名がある。

 ミラ・コックス。

 王都では平凡と見なされた治療師の娘。

 だが、黒い術式へ干渉しているという。

 ベルトランは、低く息を吐いた。

「ガレスも、セヴランも、何を遊んでいる」

     ss


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