王都から離れる道 2
物資の補充には時間がかかった。
グレイル村で使った薬草、包帯、浄化布、白石粉。
それから、反応針の予備。
水を確認するための小瓶。
簡易濾過布。
エリオットの補助具用の白石片。
店主と手伝いの少年が品を揃えていく間、ミラは薬草棚を見ていた。
今度は、ただ見たいからではない。
次の村で何が必要になるか、考えながら選ぶ。
「咳止め用は多めにします。熱病用の苦草と、鎮痛用の柳皮も。あと、高齢者の関節痛なら温湿布用の香草が必要ですね」
「良い判断だ」
店主が言う。
エリオットが帳面に書き留める。
「苦草、柳皮、温湿布用香草」
「エリオットさん、字は大丈夫ですか?」
「左手だから遅いが、読める」
「見せてください」
エリオットは一瞬ためらったが、帳面を差し出した。
文字は少し角張っていて、ところどころ線が震えている。けれど、丁寧だった。
ミラは微笑んだ。
「読めます」
「ならいい」
「右手が戻ったら、右手でも書けるようになりますね」
言ってから、ミラは少しだけ息を止めた。
期待を乗せすぎたかもしれない。
だが、エリオットは静かに右手を見た。
「……そうだな」
その声は、怖がっていなかった。
慎重ではある。
けれど、拒んではいない。
ミラは胸の奥が温かくなるのを感じた。
その日の宿は、魔道具屋の紹介で取った。
店の裏手にある小さな旅人宿で、清潔だが目立たない。大通りから少し外れていて、荷馬車の音も遠い。
宿の主人が部屋の鍵を二つ出そうとしたところで、少し困った顔をした。
「申し訳ありません。今日は片方の部屋で雨漏りが見つかりまして。すぐ修理させますが、今夜は一部屋しか……」
ミラは首を傾げた。
「私は構いません。エリオットさんは患者ですし」
その瞬間、エリオットがはっきりと言った。
「俺が構います」
ミラは瞬いた。
「え?」
「君が気にしないことと、俺が気にしないことは別だ」
その声は穏やかだったが、きっぱりしていた。
宿の主人が慌てる。
「簡易寝台を廊下側の小部屋に出せます。扉は内側から開けておけますし、衝立も」
「それでお願いします」
エリオットは即答した。
ミラは少し戸惑った。
「でも、エリオットさんの腕が」
「小部屋で問題ない。君は部屋を使え」
「患者なのに」
「元騎士でもある」
その一言に、ミラは黙った。
エリオットの中には、確かにまだ騎士がいる。
剣を握れなくても。
右腕が不完全でも。
彼は女性と同じ部屋で不用意に寝起きすることを、当然とはしない。
それは距離を置かれている寂しさではなく、丁寧に扱われている安心感だった。
「……ありがとうございます」
ミラがそう言うと、エリオットは少しだけ目を伏せた。
「礼を言われることじゃない」
「でも、言います」
「そうか」
宿の主人は二人を見比べ、微笑ましそうな顔をしてから、慌てて表情を戻した。
夜、ミラは部屋の机でライヘルへの手紙を書いた。
リンドル到着。
次の治療先。
ハルム村、レーンの集落、サリア水車村。
エリオットの右手の状態。
ネロの死の報告を受け取ったこと。
そして、最後にこう書いた。
――エリオットさんは、助手として記録を手伝ってくれています。
――ただ、根本はやはり騎士なのだと思います。
――私が平気だと言っても、節度を守ろうとしてくれます。
――そういうところに、少し安心します。
書いてから、ミラは筆を止めた。
これは兄に書くことだっただろうか。
少し迷って、消さずに残した。
兄ならきっと、余計に心配する。
でも、同時に安心もするはずだ。
廊下側の小部屋から、紙をめくる音が聞こえる。
エリオットも記録をつけているのだろう。
ミラは少しだけ笑った。
グレイル村へ来た時とは、何もかもが違う。
自分も。
彼も。
二人の関係も。
その同じ夜、リンドルの厩で、一人の男が馬の脚を見ていた。
旅の商人を装った男だった。
厩番が、何気なく話しかける。
「今日は王都方面からも西からも人が多いな」
「そうかい」
「右腕を吊った大きな男と、若い治療師の二人連れも来たよ。魔道具屋に入っていった」
男は馬の蹄を見る手を止めなかった。
「怪我人か」
「元騎士みたいな歩き方だったな。右腕は駄目そうだったが、目つきが違う。治療師の方は小柄な娘さんだ。旅治療師らしい」
「へえ」
男は銅貨を一枚、厩番に渡した。
「その二人、どちらへ?」
「西へ行くんじゃないか。ハルム村だの何だの、魔道具屋の小僧が言ってた」
「そうか」
男は立ち上がった。
夜の闇の中で、その目だけが冷えている。
騎士団の者ではない。
通行証も持たない。
正式命令もない。
だから、記録には残らない。
男はリンドルの路地へ消えた。
その報せは、翌朝には王都北区の古い屋敷へ届くことになる。
翌朝、ミラとエリオットはリンドルを発つ準備を整えた。
目的地はハルム村。
王都からは、さらに遠ざかる道だった。
ミラは街道の西を見た。
「王都から、離れますね」
「ああ」
「少し怖いです。王都には兄さんたちがいるのに」
「近づけば、敵にも近づく」
「はい」
「今は、離れることにも意味がある」
エリオットは左手で帳面を持ち、右手を補助具の中で静かに休ませていた。
「治療を続ける。黒いものの痕跡を探す。俺の腕を壊さないよう、少しずつ進める。その間に、王都側が証拠を固める」
「はい」
「戻る時は、逃げ戻るんじゃない」
彼は王都の方角を一度だけ見た。
「取り戻すために戻る」
その言葉に、ミラの胸が震えた。
エリオットの右腕。
彼の騎士としての道。
グレイル村で見つけた真実。
ネロが残した物証。
そして、王都の奥にいる黒い根。
すべてを取り戻すために。
「行きましょう」
ミラは言った。
エリオットが頷く。
「ああ」
二人はリンドルを出て、西の街道へ歩き出した。
まだ恋ではない。
けれど、並ぶ歩幅は以前よりずっと自然だった。
旅治療師と、その助手見習い。
患者と治療師。
元騎士と、白花の力を持つ少女。
いくつもの名を持ちながら、二人は次の村へ向かう。
その背後で、見えない目が静かに動き始めていることを、まだ完全には知らないまま。




