グレイル村を発つ日 3
村の外れまで、村人たちが見送りに来た。
北側の井戸へ続く道ではなく、南の泉へ向かう道を通る。今のグレイル村にとって、一番安全な道だった。
村長が最後に深く頭を下げた。
「どうか、お気をつけて」
「村長さんたちも」
「はい」
「無理に井戸を戻そうとしないでください。反応が落ちるまでは、必ず南の泉で」
「分かっています」
「患者さんの黒根は、焦らずに」
「ええ」
「坑道の布が黒くなったら」
「棒で外し、白石粉の桶へ」
「子どもたちは」
「柵の内側へ近づけません」
ミラは思わず笑った。
「もう、私が言う前に答えられますね」
村長も少しだけ笑った。
「何度も教わりましたから」
その笑みを見て、ミラはようやく安心した。
完全ではない。
でも、ここには続ける力がある。
ミラは深く頭を下げた。
「お世話になりました」
村人たちがざわめく。
「こちらこそ!」
「治療師さん、ありがとう!」
「エリオットさんも!」
「無理しないでくださいよ!」
最後の声に、エリオットが少しだけ目を瞬いた。
村の子どもが手を振っている。
エリオットは左手で小さく応えた。
右手ではない。
けれど、その表情は以前より少し柔らかかった。
村を離れてしばらく歩くと、グレイル村の屋根が少しずつ小さくなっていった。
ミラは何度も振り返りそうになり、そのたびに前を向いた。
エリオットは何も言わなかった。
ただ、歩調を合わせてくれている。
それだけで十分だった。
「リンドルまでは、途中で一泊ですね」
ミラが言う。
「ああ。無理に進まない」
「エリオットさんの右腕もあるし」
「君の体力もある」
「私は大丈夫です」
「その言葉は信用しない」
「ひどい」
「実績がある」
ミラは言い返せなかった。
エリオットは左手で小さな帳面を取り出した。
「今日の移動記録は俺がつける」
「本当に助手みたいですね」
「真似事だ」
「助かっています」
ミラがそう言うと、エリオットは少しだけ黙った。
それから、低く答える。
「俺も、助けられている」
風が吹いた。
グレイル村の灰色の空気とは違う、街道の風だった。
ミラは前を向いた。
「リンドルへ戻ったら、魔道具屋さんで物資を補充して、次の治療先を確認しましょう」
「ああ」
「父さんたちは三番倉庫を調べるんですよね」
「危険だが、必要だ」
「ネロさんの残したものを、無駄にしないためにも」
「ああ」
少し沈黙が落ちた。
ネロのことを考えると、胸が重くなる。
けれど、その重さも連れていくしかない。
助けきれないかもしれない命。
それでも残された証拠。
使い捨ての駒として終わらせないための、小さな抵抗。
ミラは白花のペンダントを握った。
「エリオットさん」
「何だ」
「私たち、次の村でもちゃんとやれますか」
エリオットは少し考えた。
そして答える。
「グレイル村に来た時よりは、やれる」
その言葉に、ミラは顔を上げた。
「全部分かっているわけじゃない。俺の腕も不完全だ。君の力も、まだ危うい。王都には敵がいる」
「はい」
「でも、俺たちは前より手順を知っている。記録も取れる。無理を止めることも、少しは覚えた」
「少しは、ですか」
「君はまだ怪しい」
「エリオットさんもです」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらともなく小さく笑った。
恋と呼ぶには、まだ静かすぎる。
けれど、信頼は確かにあった。
患者と治療師。
守られる者と守る者。
それだけではない。
互いの足りないところを補い、危ない時には止め、できることを記録し、次へ繋げる。
相棒。
その言葉が、今の二人には一番近かった。
一方、グレイル村では、オリヴァーたちが出発の準備を始めていた。
ミラとエリオットを見送った後も、休む時間はなかった。
三番倉庫。
リンドルの中継地点。
ネロが隠したという封印札の欠片。
黒い蜜蝋。
箱の符号。
それを調べなければならない。
オリヴァーはネロの黒輪抑制具をもう一度確認した。反応針は薄曇り。昨夜よりは落ち着いているが、安心できる状態ではない。
「明日の朝、リンドルへ向かう」
オリヴァーが言うと、ネロは薄く目を開けた。
「遅い」
「今日動けば、村の管理確認が中途半端になる」
「真面目だな」
「職人だからね」
ネロは小さく笑った。
「三番倉庫の床、入口から右、三枚目。釘が新しい」
「覚えている」
「黒い蜜蝋は、割るな。触るな。白い粉の上に置け」
「それも覚えている」
「俺の言うことなんか信じるなよ」
「信じてはいない」
ネロの口元が歪む。
「いいね」
オリヴァーは静かに続けた。
「だが、君が残した物は確認する」
ネロは目を閉じた。
「ならいい」
その夜、リンドルの三番倉庫に、一人の男が近づいていた。
顔は深い帽子で隠れている。
手には小さな黒い封蝋。
足音は静かで、倉庫番に気づかれない。
男は扉の前で立ち止まり、懐から薄い黒紙を取り出した。
そこには、棘のような細い紋が描かれている。
セヴランの研究室から伸びた、黒い線の先。
男は扉に手をかざした。
内側から、微かに黒い反応が返る。
三番倉庫の床下には、まだ何かが残っている。
男は静かに笑った。
消すべきか。
置いておくべきか。
命令は一つだった。
迎えを置いておけ。
倉庫の中に、黒い影が滑り込む。
グレイル村を発ったミラとエリオットがリンドルへ向かう頃、別の場所では、ネロの置き土産を巡る次の罠が、静かに口を開けようとしていた。




