グレイル村を発つ日 2
出発の準備を終える前に、ミラはネロのいる倉庫へ向かった。
オリヴァーが同行し、エリオットも入口までついてきた。右腕に負担をかけないため、倉庫内へは深く入らない。
ネロは壁にもたれて座っていた。
黒輪抑制具は二重化され、白石布でさらに覆われている。顔色は悪い。けれど、意識ははっきりしていた。
「行くのか」
ネロが言った。
「はい」
ミラは少し離れた位置で膝をついた。
「村の手順は残しました。父さんたちはもう少し残ります。三番倉庫のことも、必ず調べます」
「ふうん」
ネロは薄く笑った。
「律儀だな」
「ネロさんが教えてくれたことですから」
「俺は自分のために隠しただけだ」
「それでも、今は私たちに渡してくれました」
ネロはしばらく黙った。
黒輪がわずかに脈打つ。
オリヴァーが反応針を見る。まだ震えはない。
「治療師ちゃん」
「はい」
「俺が死んでも、あんたのせいじゃねえぞ」
ミラの喉が詰まった。
言い返したい。
死なないでくださいと言いたい。
でも、それがどれほど軽い言葉になるのかも分かっていた。
セヴランの黒輪は、ミラの願いだけで外せるものではない。
「……死なないでください」
それでも、言った。
ネロは呆れたように目を細める。
「言うと思った」
「言います」
「ほんと、変な治療師だな」
「よく言われます」
「言われてるのかよ」
ネロはかすかに笑い、それからエリオットを見た。
「元騎士」
「何だ」
「右手、動いたんだろ。無駄にすんなよ」
エリオットはまっすぐネロを見た。
「お前が残したものもな」
ネロの表情が一瞬だけ止まった。
そして、口元だけで笑う。
「……そうしろ」
黒輪がまた小さく熱を持つ。
ミラは立ち上がった。
これ以上、長く話させてはいけない。
「ネロさん」
「あ?」
「助けることと、信用することは別だと、兄に言われました」
「いい兄貴だな」
「はい。だから、私はあなたを完全には信用していません」
ネロは少し驚いたように目を開いた。
「でも、あなたが残そうとしたものは信じます」
その言葉に、ネロは視線を逸らした。
「……十分だ」
小さな声だった。
それが別れの言葉だった。
荷物は少なかった。
ミラの旅鞄。
薬草。
包帯。
記録帳。
白花のペンダント。
エリオットの補助具と杖。
リンドルへ持ち帰る患者記録の写し。
瘴気の核は、オリヴァーが管理したまま残る。今すぐ運ぶには危険すぎる。王都へ送るサンプルも、まずはリンドルの魔道具屋を経由することになっていた。
オリヴァーは、ミラの鞄の中身を最後まで確認した。
「薬草は足りるね」
「はい」
「包帯は」
「昨日補充しました」
「反応針は二本」
「入っています」
「自分用の薬草茶は?」
「……入れました」
「本当に?」
ミラは鞄の奥から小袋を取り出して見せた。
オリヴァーは満足そうに頷く。
「よろしい」
「父さん、私、子どもじゃないよ」
「知っているよ」
オリヴァーは優しく言った。
「でも、父親は確認するものだ」
そう言われると、ミラは何も言えなかった。
オリヴァーは次にエリオットを見た。
「エリオット君」
「はい」
「右腕は、絶対に無理をしないこと。動いたからといって試さない。感覚が戻った部分を守る。痛みが四を超えたら、その日は移動をやめる」
「分かりました」
「ミラが治療数を増やしそうなら止める」
「はい」
「ミラが食事を抜きそうなら」
「食べさせます」
「薬草茶を飲まなかったら」
「記録します」
「記録するだけじゃなく、飲ませてください」
エリオットは真面目に頷いた。
「分かりました」
ミラは思わず言った。
「私の保護者が増えていませんか」
ロアンが横から笑った。
「増えてるね」
「ロアンさんまで」
「でも必要だよ、ミラちゃん」
ダリオが手綱を確認しながら短く言った。
「諦めろ」
ミラは少しだけ頬を膨らませた。
その様子に、エリオットがほんのわずかに笑った。
「今、笑いましたね」
「少しだけ」
「認めましたね」
「認める」
そんな小さなやり取りができるくらいには、出発の朝は穏やかだった。
それが、ありがたかった。




