グレイル村を発つ日 1
グレイル村を発つ朝、ミラはいつもより早く目を覚ました。
診療所代わりの空き家の中は、まだ薄暗い。窓辺の小型換気具が静かに動き、反応針は薄曇りのまま落ち着いている。
黒変はしていない。
震えてもいない。
それだけで、最初にこの村へ来た頃とはまるで違う朝だった。
ミラは寝台から起き上がり、机の上に置かれた記録帳を開いた。
水場の管理。
患者の症状。
坑道入口の反応。
排水路の封印布。
ネロの黒輪。
エリオットの右手。
項目は多い。
けれど、どれもミラ一人だけのものではなくなっていた。
水場の記録は村の女性たちがつけられる。
封印布の交換はロアンが村人に教えた。
坑道入口の見張りはダリオが隊を作った。
患者の軽症管理は薬草茶と蒸気薬の手順書がある。
ネロの黒輪はオリヴァーが抑制具を二重化した。
エリオットの右手は、無理に進めないと決めた。
全部を抱えなくても、続いていく。
その事実が、少しだけ寂しくて、少しだけ誇らしかった。
「起きていたのか」
低い声がした。
入口側を見ると、エリオットが外套を肩に掛けて立っていた。右腕は補助具で固定され、左手には杖。顔色はまだ万全ではないが、昨日よりずっと落ち着いている。
「おはようございます」
「ああ」
「右腕は?」
「痛み三。熱は手首から肘まで。親指と人差し指は、触れられれば分かる」
ミラは思わず微笑んだ。
「私が聞く前に報告できましたね」
「助手だからな」
何気なく返された言葉に、ミラは少しだけ瞬いた。
助手。
エリオットは自分で言ってから、わずかに気まずそうに視線を逸らした。
「……真似事だが」
「いいえ」
ミラは記録帳に筆を走らせた。
――エリオットさん、朝の自己申告あり。痛み三、熱は肘まで。親指・人差し指の感覚継続。
「とても助かっています」
そう言うと、エリオットは黙った。
けれど、その横顔はほんの少しだけ柔らかかった。
朝食後、村の広場に人が集まった。
ミラとエリオットが今日、グレイル村を発つと聞いて、村人たちが自然と集まってきたのだ。
広場の中央には、水配り用の大桶がある。そばには反応針と白石粉の皿、記録板。今朝の担当者は村の若い娘で、少し緊張しながらも、手順通りに針をかざしていた。
「南の泉。朝一番。反応なし」
娘が声に出して記録する。
周囲の大人たちが頷いた。
ミラはその様子を見て、胸の奥が熱くなる。
自分が言わなくても、できている。
村長がミラの前に立った。
「治療師さん。エリオットさん」
「はい」
「この村は、まだ元通りではありません。井戸も戻っておらず、坑道も危険なままです」
村長の声は静かだった。
「ですが、何をすべきかは教わりました。水を確認し、患者を記録し、危険な場所に近づかず、異常があればリンドルへ知らせる。私たちは、それを続けます」
ミラは唇を結んだ。
泣いてはいけない。
泣く場面ではない。
けれど、胸がいっぱいだった。
「本当は、全部治してから出たかったです」
ぽつりとこぼれた言葉に、村長は首を横に振った。
「あなたは、全部を治すための道を残してくれました」
村長は深く頭を下げた。
「それだけで、どれほど救われたか分かりません」
続いて、患者たちの家族も頭を下げた。
「薬草茶、ちゃんと朝晩飲ませます」
「黒い布には触りません」
「井戸には近づかせません」
「反応針、昨日より見方が分かるようになりました」
口々にそう言う声を聞いて、ミラはようやく頷いた。
「お願いします」
声が少し震えた。
「どうか、無理をしないで。分からないことがあったら、すぐリンドルの魔道具屋さんへ。父さんたちにも伝わるようにしてあります」
「はい」
村長が頷く。
その横で、オリヴァーが手順書の束を村長へ渡した。
「これは控えです。リンドルにも同じものを置きます。反応針が黒変した日、水の異常が出た日、患者が悪化した日を必ず記録してください」
「分かりました」
「三日に一度、リンドルへ状況を送ってください。便が難しければ、週に一度でも構いません」
ロアンが横から、木箱を指した。
「交換用の濾過布と吸着板はここです。印が青い方が診療所用、赤い方が坑道入口用。間違えると効果が落ちるので、色で見てください」
ダリオは村の見張り役たちへ最後の確認をしていた。
「鐘は一回なら水場異常。二回なら坑道。三回なら人影だ。追うな。絶対に追うな。追いたくなったら俺の顔を思い出せ」
若い男たちが真剣な顔で頷く。
その光景に、エリオットがわずかに目を細めた。
「どうしました?」
ミラが尋ねる。
「いい隊だと思った」
「見張り隊ですか?」
「ああ。武器を持つだけが守ることじゃない。知らせる。逃がす。近づけない。それも守りだ」
元騎士の言葉だった。
ミラは広場を見渡した。
水を運ぶ人。
患者記録をつける人。
坑道を見張る人。
薬草茶を煮る人。
子どもたちを危険な場所から遠ざける人。
皆が、この村を守っている。




