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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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村に残すもの 3

夕方、村長がミラに頭を下げた。

 診療所の前だった。

 広場では、村人たちが水の記録をつけている。子どもたちは柵の外で遊ぶようになり、北側の古井戸には誰も近づかない。

「治療師さん」

「はい」

「あなたは、そろそろ村を出るおつもりなのですね」

 ミラは息を詰めた。

 まだ、口にはしていなかった。

 けれど、村長は気づいていたのだろう。

 ミラは正直に答えた。

「……はい。すぐではありません。でも、長くは留まれません」

 村長は静かに頷いた。

「寂しくなりますな」

「まだ患者さんもいます。井戸も戻っていません。坑道の奥も」

「ええ。ですが、あなたが全部背負うことではありません」

 ミラは顔を上げた。

 村長の目には疲れがあった。だが、以前のようなただの不安だけではない。

「あなたは、この村に手順を残してくれました。水の見方、患者の記録、危険な場所の避け方。私たちは、まだ慣れていません。怖くもあります。ですが、何をすればいいかは分かります」

「でも」

「ここから先は、私たちの村を、私たちも守らねばなりません」

 その言葉に、ミラの胸が熱くなった。

 村長は深く頭を下げる。

「どうか、あなたが見つけたものを、次へ繋げてください。この村をこんな目に遭わせた者たちを止めるために」

 ミラは唇を噛み、そして頷いた。

「はい」

 声が震えた。

「必ず」

     

 夜、ミラとエリオットは診療所の外に並んで立っていた。

 空には星が少し見えている。

 灰色の雲はまだある。けれど、夜の全部を覆ってはいなかった。

「村長さんに言われました」

 ミラがぽつりと言う。

「ここから先は、村の人たちも守る番だって」

「そうか」

「分かっていたつもりでした。でも、言われると……」

「つらいか」

「はい」

 素直に答えた。

 エリオットは静かに頷いた。

「俺も、この村を置いていくような気がしていた」

「エリオットさんも?」

「ああ。だが、置いていくのとは違う。ここで得たものを持っていくんだと思う」

「得たもの」

「黒い術式の手がかり。水脈型の記録。俺の右手の兆し。村人たちが続けられる手順」

 エリオットは自分の右手を見た。

 補助具に包まれた手。

「そして、君が一人で抱えなくても治療は続くということ」

 ミラは目を伏せた。

「……それは、たぶん一番大きいです」

「そうだな」

「私、残りたいって思ってました。今も、少し思っています」

「ああ」

「でも、同じことが他の村で起きるなら、止めたい」

「ああ」

「エリオットさんの右腕も、ちゃんと治したい」

 エリオットは一瞬、言葉を失ったようだった。

 ミラは彼を見上げる。

「ここで少し動いたからこそ、ちゃんと治したいです。無理にじゃなくて、壊さないように。正しい方法で」

 エリオットは長く黙っていた。

 やがて、低く答える。

「頼む」

 その一言は、とても静かだった。

 けれど、深いところから出た言葉だった。

 ミラは頷いた。

「はい」

     

 同じ夜、オリヴァーはロアンとダリオを呼んでいた。

 机の上には、リンドルまでの地図が広げられている。

「明日、私はリンドルへ向かいます」

 オリヴァーが言った。

「三番倉庫を調べるためですね」

 ロアンが確認する。

「ええ。グレイル村の管理体制は、今日でひとまず回ります。明日の朝に最終確認をして、午後に出る」

 ダリオが腕を組む。

「ミラたちは?」

「おそらく明後日には村を発つ。次の救護先へ向かわせるか、一度リンドルで合流するかは、朝に話す」

「三番倉庫は危険だぞ」

「分かっています」

「消しに来る者がいるかもしれん」

「だからあなたに頼みたい」

 ダリオは短く笑った。

「最初からそのつもりだ」

 ロアンは少し緊張した顔で言う。

「師匠、ネロは?」

「村に残す。今は動かせない。黒輪が移動にどう反応するか分からない」

「でも、セヴランが」

 名を出した瞬間、部屋の空気が冷えた。

 オリヴァーは静かに頷く。

「危険だ。だが、今すぐリンドルへ動かす方がもっと危険かもしれない」

「抑制具を追加しますか」

「する。今夜のうちに二重化する。完全には防げないが、時間は稼げる」

 時間。

 今、彼らが手にしているのは、それだけだった。

     

 その頃、王都の黒い研究室では、セヴランが静かに盤を見下ろしていた。

 リンドルへ伸びる黒い線。

 グレイル村で微かに光る白花と剣。

 そして、倉庫の隅で弱く脈打つ黒輪。

「動きが出ましたね」

 研究員が言う。

「職人たちが三番倉庫へ向かうようです」

「ええ」

 セヴランは穏やかに微笑んだ。

「ネロは思ったより役に立ちました。最後まで、自分が保険のつもりで隠したものに縋るとは」

「処分しますか」

「まだ」

 セヴランは指先で盤を撫でた。

「彼らが何を見つけるか、少し見ましょう。証拠は、時に人をより深い場所へ誘います」

 その声は、優しかった。

 優しいほどに、冷たかった。

「ただし、倉庫が空のままでは面白くありませんね」

 黒い線が、リンドルの三番倉庫へ細く伸びる。

「迎えを置いておきましょう」

 盤面の中で、リンドルの町に小さな黒点が灯った。

     

 翌朝へ向けて、グレイル村は静かに眠り始めた。

 水場には見張り。

 坑道入口には鐘。

 北側の古井戸には封印布。

 倉庫には白石粉の輪。

 ミラは帳面に今日の最後の記録を書いた。

 ――村の管理手順、おおむね引き継ぎ完了。

 ――エリオットさん右手の回復兆候、継続観察。

 ――ネロさんより三番倉庫の物証情報あり。オリヴァーたちが確認予定。

 ――村を離れる判断が近い。

 ――残ることだけが守ることではない。

 最後の一文を書いた時、胸が痛んだ。

 けれど、以前ほど苦しくはなかった。

 隣でエリオットが薬草茶を置いた。

「飲め」

「記録に書きますか?」

「もちろん」

「……飲みます」

 ミラは杯を受け取った。

 温かい香りが、夜の重さを少しだけ薄める。

 グレイル村での時間は、終わりへ向かい始めていた。

 けれど、そこで得たものは終わらない。

 黒い根を辿るための手がかりも。

 右手に戻った小さな感覚も。

 村に残した手順も。

 ネロが捨て駒のまま終わらないために残した、床下の欠片も。

 すべてが次へ繋がっていく。

 ミラは薬草茶を飲みながら、静かに目を閉じた。



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