村に残すもの 3
夕方、村長がミラに頭を下げた。
診療所の前だった。
広場では、村人たちが水の記録をつけている。子どもたちは柵の外で遊ぶようになり、北側の古井戸には誰も近づかない。
「治療師さん」
「はい」
「あなたは、そろそろ村を出るおつもりなのですね」
ミラは息を詰めた。
まだ、口にはしていなかった。
けれど、村長は気づいていたのだろう。
ミラは正直に答えた。
「……はい。すぐではありません。でも、長くは留まれません」
村長は静かに頷いた。
「寂しくなりますな」
「まだ患者さんもいます。井戸も戻っていません。坑道の奥も」
「ええ。ですが、あなたが全部背負うことではありません」
ミラは顔を上げた。
村長の目には疲れがあった。だが、以前のようなただの不安だけではない。
「あなたは、この村に手順を残してくれました。水の見方、患者の記録、危険な場所の避け方。私たちは、まだ慣れていません。怖くもあります。ですが、何をすればいいかは分かります」
「でも」
「ここから先は、私たちの村を、私たちも守らねばなりません」
その言葉に、ミラの胸が熱くなった。
村長は深く頭を下げる。
「どうか、あなたが見つけたものを、次へ繋げてください。この村をこんな目に遭わせた者たちを止めるために」
ミラは唇を噛み、そして頷いた。
「はい」
声が震えた。
「必ず」
夜、ミラとエリオットは診療所の外に並んで立っていた。
空には星が少し見えている。
灰色の雲はまだある。けれど、夜の全部を覆ってはいなかった。
「村長さんに言われました」
ミラがぽつりと言う。
「ここから先は、村の人たちも守る番だって」
「そうか」
「分かっていたつもりでした。でも、言われると……」
「つらいか」
「はい」
素直に答えた。
エリオットは静かに頷いた。
「俺も、この村を置いていくような気がしていた」
「エリオットさんも?」
「ああ。だが、置いていくのとは違う。ここで得たものを持っていくんだと思う」
「得たもの」
「黒い術式の手がかり。水脈型の記録。俺の右手の兆し。村人たちが続けられる手順」
エリオットは自分の右手を見た。
補助具に包まれた手。
「そして、君が一人で抱えなくても治療は続くということ」
ミラは目を伏せた。
「……それは、たぶん一番大きいです」
「そうだな」
「私、残りたいって思ってました。今も、少し思っています」
「ああ」
「でも、同じことが他の村で起きるなら、止めたい」
「ああ」
「エリオットさんの右腕も、ちゃんと治したい」
エリオットは一瞬、言葉を失ったようだった。
ミラは彼を見上げる。
「ここで少し動いたからこそ、ちゃんと治したいです。無理にじゃなくて、壊さないように。正しい方法で」
エリオットは長く黙っていた。
やがて、低く答える。
「頼む」
その一言は、とても静かだった。
けれど、深いところから出た言葉だった。
ミラは頷いた。
「はい」
同じ夜、オリヴァーはロアンとダリオを呼んでいた。
机の上には、リンドルまでの地図が広げられている。
「明日、私はリンドルへ向かいます」
オリヴァーが言った。
「三番倉庫を調べるためですね」
ロアンが確認する。
「ええ。グレイル村の管理体制は、今日でひとまず回ります。明日の朝に最終確認をして、午後に出る」
ダリオが腕を組む。
「ミラたちは?」
「おそらく明後日には村を発つ。次の救護先へ向かわせるか、一度リンドルで合流するかは、朝に話す」
「三番倉庫は危険だぞ」
「分かっています」
「消しに来る者がいるかもしれん」
「だからあなたに頼みたい」
ダリオは短く笑った。
「最初からそのつもりだ」
ロアンは少し緊張した顔で言う。
「師匠、ネロは?」
「村に残す。今は動かせない。黒輪が移動にどう反応するか分からない」
「でも、セヴランが」
名を出した瞬間、部屋の空気が冷えた。
オリヴァーは静かに頷く。
「危険だ。だが、今すぐリンドルへ動かす方がもっと危険かもしれない」
「抑制具を追加しますか」
「する。今夜のうちに二重化する。完全には防げないが、時間は稼げる」
時間。
今、彼らが手にしているのは、それだけだった。
その頃、王都の黒い研究室では、セヴランが静かに盤を見下ろしていた。
リンドルへ伸びる黒い線。
グレイル村で微かに光る白花と剣。
そして、倉庫の隅で弱く脈打つ黒輪。
「動きが出ましたね」
研究員が言う。
「職人たちが三番倉庫へ向かうようです」
「ええ」
セヴランは穏やかに微笑んだ。
「ネロは思ったより役に立ちました。最後まで、自分が保険のつもりで隠したものに縋るとは」
「処分しますか」
「まだ」
セヴランは指先で盤を撫でた。
「彼らが何を見つけるか、少し見ましょう。証拠は、時に人をより深い場所へ誘います」
その声は、優しかった。
優しいほどに、冷たかった。
「ただし、倉庫が空のままでは面白くありませんね」
黒い線が、リンドルの三番倉庫へ細く伸びる。
「迎えを置いておきましょう」
盤面の中で、リンドルの町に小さな黒点が灯った。
翌朝へ向けて、グレイル村は静かに眠り始めた。
水場には見張り。
坑道入口には鐘。
北側の古井戸には封印布。
倉庫には白石粉の輪。
ミラは帳面に今日の最後の記録を書いた。
――村の管理手順、おおむね引き継ぎ完了。
――エリオットさん右手の回復兆候、継続観察。
――ネロさんより三番倉庫の物証情報あり。オリヴァーたちが確認予定。
――村を離れる判断が近い。
――残ることだけが守ることではない。
最後の一文を書いた時、胸が痛んだ。
けれど、以前ほど苦しくはなかった。
隣でエリオットが薬草茶を置いた。
「飲め」
「記録に書きますか?」
「もちろん」
「……飲みます」
ミラは杯を受け取った。
温かい香りが、夜の重さを少しだけ薄める。
グレイル村での時間は、終わりへ向かい始めていた。
けれど、そこで得たものは終わらない。
黒い根を辿るための手がかりも。
右手に戻った小さな感覚も。
村に残した手順も。
ネロが捨て駒のまま終わらないために残した、床下の欠片も。
すべてが次へ繋がっていく。
ミラは薬草茶を飲みながら、静かに目を閉じた。




