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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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村に残すもの 1

 グレイル村に、久しぶりの晴れ間が差した。

 雲がすべて消えたわけではない。坑道の方角にはまだ灰色が沈み、北側の古井戸には封印布が掛けられたままだ。排水路の入口にも白石粉の輪が置かれ、子どもたちが近づかないよう木の柵が立てられている。

 それでも、朝の光は昨日より少しだけ明るかった。

 村の広場では、水配りの手順が始まっている。

 南の泉から運ばれた水を大桶へ移し、反応針をかざす。針先が澄んでいることを確認してから、記録板へ時刻と担当者の名を書く。それから各家へ配る。

 ぎこちなかった動きは、昨日より少し滑らかになっていた。

 ミラは診療所の窓からその様子を見ていた。

「今日は、私が何も言わなくても進んでる」

 ぽつりと呟くと、隣にいたエリオットが頷いた。

「ああ」

「すごいですね」

「君が教えた」

「みんなが覚えてくれたんです」

 そう言いながら、ミラは胸元の白花のペンダントに触れた。

 グレイル村はまだ救われきっていない。

 井戸は使えない。

 坑道の奥には箱が残っている。

 患者もまだ全員が治ったわけではない。

 けれど、村はもう、ただ助けを待つだけではなかった。

     

 その日の午前、エリオットの右手の記録が改めて取られた。

 診療所の机には、ミラの帳面と、オリヴァーの記録紙が並べられている。ロアンは補助具を確認し、エリオットは椅子に座って右腕を動かさないよう静かにしていた。

「まず感覚からです」

 ミラは慎重に言った。

「動かそうとしないでください」

「ああ」

「本当に」

「本当に」

「少しでも痛みが跳ねたら、すぐ言ってください」

「分かっている」

 最近、エリオットは素直に返事をするようになった。

 それが良いことのはずなのに、ミラは少しだけ落ち着かない。無理を隠されるよりずっといい。けれど、彼が本当に慎重になっているのを見ると、今までどれほど危ういところで踏みとどまっていたのかを思い知らされる。

 ミラは右手の親指に軽く触れた。

「ここは?」

「分かる」

「人差し指」

「分かる。親指より鈍い」

「中指」

「遠い。触れられているのは分かるが、場所は曖昧だ」

「薬指」

「ほとんど分からない」

「小指」

「分からない」

 ミラは記録した。

 以前なら、親指も人差し指もただ重い布越しに押されているような感覚だった。それが今は、触れている場所をある程度言える。

 小さな変化。

 けれど、確かな変化だった。

 オリヴァーが補助具の肩側を確認しながら言う。

「熱は?」

「手首から肘。昨日より弱い」

「痛みは?」

「三。時々四」

「動かそうとしたい感覚は?」

 エリオットは少し黙った。

「ある」

 ミラの筆が止まる。

「でも、動かさない」

 エリオットはすぐに続けた。

「今はまだ、動かせることを確認する段階じゃない。戻った感覚を壊さないことが先だ」

 ミラは彼を見た。

 その言葉が、彼自身の口から出たことが嬉しかった。

「はい。良い判断です」

「君の言葉だ」

「今日はお返ししていいです」

 エリオットはほんの少しだけ目元を緩めた。

 オリヴァーは記録紙に書き込む。

 ――右手親指、人差し指に感覚回復傾向。

 ――随意反応は前夜一度のみ。再現検査は行わず。

 ――黒い封じの一部緩和の可能性。

 ――現地での追加刺激は禁止。

 ――本格解析には王都側資料および試し石記録が必要。

 最後の一文を書いて、オリヴァーは静かに言った。

「エリオット君。この村でできることは、ここまでかもしれない」

 ミラは顔を上げた。

 エリオットは驚かなかった。

 むしろ、その言葉を待っていたようにも見えた。

「はい」

「右手に兆しは出た。でも、ここでさらに進めようとすれば、黒い封じを刺激しすぎる。ミラの力も、君の力も、今はまだ安定していない」

「分かっています」

「王都に戻れば、試し石の記録、守護騎士の資料、禁術の解析、そしてセヴラン側の術式に関する手がかりがある」

 王都。

 その言葉が出るたびに、空気が少し変わる。

 そこには危険がある。

 ガレスがいる。

 セヴランの影がある。

 ヴィクトルの嘘も動いている。

 それでも、進まなければならない場所だった。

  



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