右手の兆し 2
診療所へ戻ると、ミラはすぐにエリオットの右腕を診た。
怒りたい気持ちと、泣きたいような安堵が胸の中でぶつかっていた。
右腕の熱は強い。
だが、先日のように肩まで焼けるような熱ではなかった。手首から肘へ、血が通うように温かい。痛みはある。けれど、黒い封じが暴れている時の鋭い痛みとは少し違う。
「痛みは?」
「四」
「痺れは?」
「親指と人差し指は……鈍いが、分かる。薬指と小指はまだ遠い」
「もう一度動かせますか」
言ってから、ミラはすぐ首を振った。
「いえ、駄目です。今は動かさないでください」
エリオットが少しだけ口元を緩めた。
「君が聞いた」
「聞きましたけど、撤回します」
「分かった」
素直だった。
それがまた、ミラを少しだけ困らせる。
オリヴァーは補助具を外さず、外側から熱の流れを確認していた。
「白石の逃がしが効いている。熱が肩へ上がりきっていない」
「父さん、これは……」
「回復の兆しだと思う」
ミラの手が止まる。
オリヴァーは慎重に続けた。
「ただし、治ったわけではない。黒い封じが一部緩んだだけだろうね。無理に動かせば、また閉じるか、傷が深くなる可能性がある」
「はい」
「記録は正確に」
「はい」
ミラは筆を取った。
――ネロ黒輪より遠隔命令糸と思われる反応。
――ミラの白花光で外側の糸を一呼吸のみ浮上。
――黒糸が私へ反応したため、エリオットさんの護符より白刃状光が発現。先端を切断。
――同時に右手親指、人差し指に随意反応あり。
――痛み四。熱は手首から肘。肩への上昇は軽度。
――黒い封じの一部が緩んだ可能性。ただし再現禁止。
――ネロ生存。黒輪本体は残存。遠隔糸の完全遮断には至らず。
書き終えて、ミラは筆を置いた。
手が震えていた。
エリオットはそれを見て、静かに言った。
「ミラ」
「はい」
「俺は、少し戻った」
その言葉に、ミラは顔を上げた。
エリオットの表情は、喜びだけではない。
怖さもある。
戸惑いもある。
期待してしまうことへのためらいもある。
それでも、彼ははっきり言った。
「少しだけだが、戻った」
ミラの胸が熱くなった。
「はい」
声が少し震えた。
「戻りました」
オリヴァーが静かに言う。
「だからこそ、ここからはもっと慎重に進めよう」
「はい」
「この村でできるのは、兆しを守ることまでだ。本格的に封じを解くには、王都の資料と、試し石の記録、禁術の解析が必要になる」
王都。
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
グレイル村に留まり続けることはできない。
エリオットの右腕が動いた今、その事実は前よりもはっきりした。
右腕を治すためにも。
黒い箱を作った者を止めるためにも。
同じ被害を他の村で出さないためにも。
いずれ、王都へ戻らなければならない。
昼過ぎ、ネロは目を覚ました。
ミラはまだ入るなと言われ、オリヴァーとエリオットだけが倉庫へ向かった。
ネロは壁にもたれ、薄く笑った。
「……まだ生きてるのか」
「生きている」
オリヴァーが答える。
「遠隔糸の先だけ切れた。だが、黒輪本体は残っている」
「そりゃそうだろ。あれは、そんな簡単なもんじゃねえ」
ネロはエリオットを見た。
「右手、動いたな」
エリオットは少し眉を寄せた。
「見えていたのか」
「見えちゃいねえ。でも、空気が変わった」
ネロは息を吐いた。
「先生は喜ぶぞ。あいつにとっちゃ、俺が苦しむことより、あんたの指が動いたことの方がよっぽど面白い」
その言葉に、倉庫の空気が冷える。
ネロは自嘲するように笑った。
「ほんと、笑えるよな。俺はあいつのおもちゃにもなれねえ。おもちゃを動かすための紐だ」
オリヴァーは静かに言った。
「君が残した三番倉庫の情報は、必ず調べる」
「早くしろ」
ネロの声が低くなる。
「俺が生きてるうちに、とは言わねえ。でも、あそこは長く残らねえ。あいつが気づいたなら、先に消される」
「分かっている」
「本当に分かってんのかよ、職人さん。先生は人を殺す時、殺す顔をしねえぞ。庭の枝を切るみたいにやる」
エリオットの左手が護符を握った。
その日の夕方、エリオットの右手の再診が行われた。
ミラ、オリヴァー、ロアン、そしてエリオット本人。
右腕は補助具に固定したまま、指だけを確認する。
「動かそうとしなくていいです。まず、感覚だけ」
ミラが言う。
「親指に触れます。分かりますか」
「分かる」
「人差し指」
「分かる。鈍い」
「中指」
「……遠い」
「薬指」
「ほとんどない」
「小指」
「ない」
ミラは記録する。
以前は、親指も人差し指もぼんやりとした圧しか分からなかった。今は触れている場所が分かる。
小さな変化。
けれど、大きな一歩。
ロアンが補助具を見ながら言った。
「師匠、白石の位置を少しずらせば、親指側の熱を逃がせます」
「そうだね。だが今日は触らない。状態が落ち着いてから調整しよう」
「はい」
ミラは慎重に言った。
「今日は絶対に動かさないでください」
「分かっている」
「本当に」
「本当に」
「夢の中でも」
エリオットは少しだけ困った顔をした。
「夢の中は保証できない」
「では薬草茶を濃くします」
「それは困る」
オリヴァーが咳払いをして、笑いを隠した。
空気が少しだけ柔らかくなる。
右腕が動いた。
それは希望だった。
同時に、危険でもあった。
けれど、希望があるだけで、人は少し息がしやすくなる。




