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落ちこぼれ治療師は傷ついた騎士の剣を取り戻す  作者: 月森しおり
第一章 旅の治療師と傷ついた騎士
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右手の兆し 2

 診療所へ戻ると、ミラはすぐにエリオットの右腕を診た。

 怒りたい気持ちと、泣きたいような安堵が胸の中でぶつかっていた。

 右腕の熱は強い。

 だが、先日のように肩まで焼けるような熱ではなかった。手首から肘へ、血が通うように温かい。痛みはある。けれど、黒い封じが暴れている時の鋭い痛みとは少し違う。

「痛みは?」

「四」

「痺れは?」

「親指と人差し指は……鈍いが、分かる。薬指と小指はまだ遠い」

「もう一度動かせますか」

 言ってから、ミラはすぐ首を振った。

「いえ、駄目です。今は動かさないでください」

 エリオットが少しだけ口元を緩めた。

「君が聞いた」

「聞きましたけど、撤回します」

「分かった」

 素直だった。

 それがまた、ミラを少しだけ困らせる。

 オリヴァーは補助具を外さず、外側から熱の流れを確認していた。

「白石の逃がしが効いている。熱が肩へ上がりきっていない」

「父さん、これは……」

「回復の兆しだと思う」

 ミラの手が止まる。

 オリヴァーは慎重に続けた。

「ただし、治ったわけではない。黒い封じが一部緩んだだけだろうね。無理に動かせば、また閉じるか、傷が深くなる可能性がある」

「はい」

「記録は正確に」

「はい」

 ミラは筆を取った。

 ――ネロ黒輪より遠隔命令糸と思われる反応。

 ――ミラの白花光で外側の糸を一呼吸のみ浮上。

 ――黒糸が私へ反応したため、エリオットさんの護符より白刃状光が発現。先端を切断。

 ――同時に右手親指、人差し指に随意反応あり。

 ――痛み四。熱は手首から肘。肩への上昇は軽度。

 ――黒い封じの一部が緩んだ可能性。ただし再現禁止。

 ――ネロ生存。黒輪本体は残存。遠隔糸の完全遮断には至らず。

 書き終えて、ミラは筆を置いた。

 手が震えていた。

 エリオットはそれを見て、静かに言った。

「ミラ」

「はい」

「俺は、少し戻った」

 その言葉に、ミラは顔を上げた。

 エリオットの表情は、喜びだけではない。

 怖さもある。

 戸惑いもある。

 期待してしまうことへのためらいもある。

 それでも、彼ははっきり言った。

「少しだけだが、戻った」

 ミラの胸が熱くなった。

「はい」

 声が少し震えた。

「戻りました」

 オリヴァーが静かに言う。

「だからこそ、ここからはもっと慎重に進めよう」

「はい」

「この村でできるのは、兆しを守ることまでだ。本格的に封じを解くには、王都の資料と、試し石の記録、禁術の解析が必要になる」

 王都。

 その言葉が、部屋に静かに落ちた。

 グレイル村に留まり続けることはできない。

 エリオットの右腕が動いた今、その事実は前よりもはっきりした。

 右腕を治すためにも。

 黒い箱を作った者を止めるためにも。

 同じ被害を他の村で出さないためにも。

 いずれ、王都へ戻らなければならない。

     

 昼過ぎ、ネロは目を覚ました。

 ミラはまだ入るなと言われ、オリヴァーとエリオットだけが倉庫へ向かった。

 ネロは壁にもたれ、薄く笑った。

「……まだ生きてるのか」

「生きている」

 オリヴァーが答える。

「遠隔糸の先だけ切れた。だが、黒輪本体は残っている」

「そりゃそうだろ。あれは、そんな簡単なもんじゃねえ」

 ネロはエリオットを見た。

「右手、動いたな」

 エリオットは少し眉を寄せた。

「見えていたのか」

「見えちゃいねえ。でも、空気が変わった」

 ネロは息を吐いた。

「先生は喜ぶぞ。あいつにとっちゃ、俺が苦しむことより、あんたの指が動いたことの方がよっぽど面白い」

 その言葉に、倉庫の空気が冷える。

 ネロは自嘲するように笑った。

「ほんと、笑えるよな。俺はあいつのおもちゃにもなれねえ。おもちゃを動かすための紐だ」

 オリヴァーは静かに言った。

「君が残した三番倉庫の情報は、必ず調べる」

「早くしろ」

 ネロの声が低くなる。

「俺が生きてるうちに、とは言わねえ。でも、あそこは長く残らねえ。あいつが気づいたなら、先に消される」

「分かっている」

「本当に分かってんのかよ、職人さん。先生は人を殺す時、殺す顔をしねえぞ。庭の枝を切るみたいにやる」

 エリオットの左手が護符を握った。

     

 その日の夕方、エリオットの右手の再診が行われた。

 ミラ、オリヴァー、ロアン、そしてエリオット本人。

 右腕は補助具に固定したまま、指だけを確認する。

「動かそうとしなくていいです。まず、感覚だけ」

 ミラが言う。

「親指に触れます。分かりますか」

「分かる」

「人差し指」

「分かる。鈍い」

「中指」

「……遠い」

「薬指」

「ほとんどない」

「小指」

「ない」

 ミラは記録する。

 以前は、親指も人差し指もぼんやりとした圧しか分からなかった。今は触れている場所が分かる。

 小さな変化。

 けれど、大きな一歩。

 ロアンが補助具を見ながら言った。

「師匠、白石の位置を少しずらせば、親指側の熱を逃がせます」

「そうだね。だが今日は触らない。状態が落ち着いてから調整しよう」

「はい」

 ミラは慎重に言った。

「今日は絶対に動かさないでください」

「分かっている」

「本当に」

「本当に」

「夢の中でも」

 エリオットは少しだけ困った顔をした。

「夢の中は保証できない」

「では薬草茶を濃くします」

「それは困る」

 オリヴァーが咳払いをして、笑いを隠した。

 空気が少しだけ柔らかくなる。

 右腕が動いた。

 それは希望だった。

 同時に、危険でもあった。

 けれど、希望があるだけで、人は少し息がしやすくなる。

     


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