右手の兆し 1
夜明け前、グレイル村の診療所で、反応針が小さく鳴った。
震えというほどではない。
けれど、机の上に置かれた針先が、かすかに黒く曇り、金属の縁を細く擦るような音を立てた。
最初に目を覚ましたのは、エリオットだった。
彼は入口側の寝台から身を起こし、左手で護符を押さえた。
白花と剣の護符が、薄く熱を持っている。
「……倉庫だ」
低い声に、隣室で眠っていたミラも目を覚ました。
「ネロさん?」
「ああ。黒輪が動いている」
ミラはすぐに立ち上がろうとした。だが、扉の外から先に足音がした。
オリヴァーだ。
「ミラ、待ちなさい」
父はすでに外套を羽織り、白石布と反応針を持っていた。
「私が先に見る」
「でも、黒輪なら私の光が」
「必要なら呼ぶ。最初から君が近づくと、向こうが反応する可能性がある」
ミラは唇を噛んだ。
そうかもしれない。
昨日、ネロが三番倉庫のことを話した。セヴランがそれに気づいているなら、黒輪はただの拘束具ではなく、こちらの反応を探るための針でもある。
だが、ミラには黙って待っているという選択肢はなかった。
エリオットも杖を取った。
「俺も行きます」
オリヴァーは彼の右腕を見た。
「感知だけだよ」
「分かっています」
「右腕を使わない」
「使いません」
それでも、護符の光は消えなかった。
倉庫に着くと、ネロはまだ眠っていた。
だが、眠りは浅い。苦しげに眉を寄せ、右手首を抱えるように丸まっている。
黒輪抑制具の下で、輪がじわじわと熱を持っていた。
反応針は黒変。
まだ震えはない。
けれど、昨日までの発作とは違う。
エリオットは入口で足を止め、目を細めた。
「締めてはいない」
「どういうことですか」
ミラが後ろから尋ねる。
「探っている。輪から外へ、細い糸が出ている。ネロの喉じゃなく……外側へ」
オリヴァーの顔が険しくなる。
「遠隔の命令糸か」
「おそらく」
ネロがかすかに呻いた。
「……先生、か」
その言葉に、黒輪が脈打った。
ミラは思わず一歩踏み出す。
オリヴァーが手で制した。
「まだ」
「でも」
「今、君が近づくと、向こうは君を測る」
父の声は低かった。
ミラはそこで立ち止まる。
悔しい。
だが、今は焦ってはいけない。
エリオットが護符を握る手に力を込めた。
「外側の糸だけなら、見える」
「断てそうかい?」
オリヴァーが問う。
「分かりません。昨日の黒い糸より細い。でも、黒輪本体に近い」
危険だ。
全員が理解していた。
黒輪本体へ触れれば、ネロの魔力路を傷つけるかもしれない。最悪、セヴランがその反応を利用して輪を締める可能性もある。
ミラは深く息を吸った。
「浮かせるだけなら、できます」
オリヴァーが振り返る。
「ミラ」
「切りません。黒輪本体には触りません。外へ伸びている糸だけを、ほんの少し浮かせます」
エリオットも彼女を見た。
「危険だ」
「分かっています」
「俺が断とうとすれば、右腕が反応する」
「だから、断つのは最後です。まず、見極めます」
ミラの声は震えていなかった。
怖くないわけではない。
でも、今は怖さよりも、手順が先にあった。
オリヴァーはしばらく娘を見ていた。
そして、小さく頷く。
「一呼吸だけ。反応針が震えたら即中止」
「はい」
「エリオット君も、白刃を出す必要があると判断するまで動かない」
「はい」
倉庫の空気が張り詰めた。
ミラはネロの手首から少し離れた位置に膝をついた。
直接触れない。
白花のペンダントを握り、細く、細く光を流す。
治すためではない。
暴くためでもない。
ただ、身体に絡んでいない異物を、ほんの少し浮かせる。
ネロの右手首から、黒い糸が一本、空気の中に浮かび上がった。
髪の毛ほど細い。
だが、確かに黒い。
それは倉庫の床へ沈むのではなく、空気の中へ溶けるように伸びていた。どこか遠くから引かれているように、かすかに震えている。
エリオットの護符が白く光る。
「見えた」
「切りますか?」
「まだ」
エリオットは歯を食いしばった。
右腕に熱が走っているのが、ミラにも分かった。補助具の肩側に挟んだ白石が、淡く光っている。
黒い糸が、ふいに強く引かれた。
ネロの喉が鳴る。
「っ、ぐ……!」
反応針が震えた。
「中止!」
オリヴァーの声。
ミラは光を引こうとした。
その瞬間、黒い糸が彼女の光を追うように跳ねた。
ミラへ向かって伸びる。
「ミラ!」
エリオットの声が響いた。
白い刃が護符から走る。
細く、短く。
昨日よりも小さい。
だが、確かに黒い糸の先を切った。
同時に、エリオットの右手の指が動いた。
親指と人差し指。
補助具の中で、かすかに、けれど自分の意志で何かを掴むように曲がった。
ミラは息を止めた。
エリオット自身も、驚いたように右腕を見下ろす。
白い刃はすぐに消えた。
黒い糸は完全には断てていない。だが、先端だけを失ったように揺れ、ネロの黒輪へ引き戻された。
反応針の震えが止まる。
ネロが激しく咳き込み、大きく息を吸った。
「……っ、は、はあ……!」
オリヴァーがすぐに抑制具を確認する。
「生きている。輪も暴走していない」
ミラはネロを見て、それからエリオットの右手を見た。
「今……」
エリオットは黙っていた。
その顔は青白い。額に汗が浮かんでいる。
それでも、右手の親指と人差し指は、ほんのわずかに曲がったままだった。
「動きました」
ミラの声は、ほとんど囁きだった。
エリオットは、ゆっくり息を吐く。
「……動かそうと、思った」
今までとは違う。
反射ではない。
痙攣でもない。
自分で動かそうとして、動いた。




