捨て駒の置き土産 3
診療所へ戻ったオリヴァーの顔を見て、ミラはすぐに立ち上がった。
「ネロさんは?」
「命はある」
「何があったの?」
オリヴァーは少しだけ迷った。
だが、隠すことではない。
「三番倉庫だ」
ミラの目が見開かれる。
「リンドルの?」
「ああ。ネロが、そこに物証を隠したらしい。床下に、封印札の欠片と黒い蜜蝋の痕跡」
「物証……」
ミラは手を握った。
「ネロさんが?」
「保身のために隠したものだと言っていた」
エリオットが静かに続けた。
「だが、今は俺たちに託した」
ミラは言葉を失った。
ネロは罪を犯した。
黒い荷を運んだ。
グレイル村を危険に巻き込んだ側の人間だ。
けれど、彼もまた黒輪で縛られ、捨てられようとしている。
そして今、捨てられる前に抗おうとしている。
「ネロさんは、自分が処分されると思っているんですね」
ミラが言うと、オリヴァーは静かに頷いた。
「そうだね」
「私たちが村を離れたら」
「危険は増す」
はっきりした答えだった。
ミラは唇を噛んだ。
残れば、ネロはしばらく生きるかもしれない。
けれど、ミラが残り続けることはできない。
村も、エリオットの右腕も、王都の黒幕も、他の被害地も待ってはくれない。
また、抱えようとしている。
その自覚があった。
エリオットが静かに言った。
「ミラ」
「はい」
「残ることだけが、守ることではない」
その言葉は、まるで彼女の心の中を読んだようだった。
「ネロが残そうとしているものを、無駄にしない。それも守ることだ」
ミラは目を伏せた。
「……はい」
オリヴァーが続ける。
「三番倉庫は私たちが調べる。君は患者の治療と、村に手順を残すことに集中しなさい」
「でも、父さんたちも危険です」
「だからダリオさんがいる。リンドルの店主も協力してくれる。危険はあるが、君が全部行く理由にはならない」
ミラは深く息を吸った。
「分かりました」
その返事は、少し震えていた。
けれど、引き受ける声だった。
その日の午後、グレイル村ではまた新しい手順が増えた。
ネロの黒輪発作時の対応。
近づくのは、オリヴァーかロアン。
ミラは呼ばれるまで入らない。
反応針が震えたら、白石布を外側から当てる。
水を飲ませない。
無理に話を聞かない。
発作後は記録する。
村人たちは、黙って聞いていた。
ネロを快く思っていない者もいる。
当然だ。
黒い荷に関わった男。
村を苦しめた者たちの一人。
それでも、彼が倉庫で死ぬことを望む空気はなかった。
ミラはそれを感じて、胸が痛くなった。
グレイル村は傷つけられた。
それでも、誰かが目の前で苦しむのを当然とは思わない。
だからこそ、この村を実験場にした者たちが許せなかった。
夕方、ミラは三人目の治療を終えた。
約束通り、それ以上は診ない。
まだ診たい患者はいた。
けれど、軽症者は薬草茶と水管理で様子を見る。村人たちも、そう理解し始めている。
ミラが診療所の外へ出ると、広場では水配りの記録板に、村の娘が丁寧に文字を書いていた。
南の泉。
反応なし。
配水済み。
異常者なし。
その文字を見て、ミラは少しだけ笑った。
続けられる形ができつつある。
完全ではない。
けれど、一歩ずつ。
隣にエリオットが来た。
「少し、進んでいるな」
「はい」
「三番倉庫の件も、進めば王都側と繋がる」
「ネロさんの証言だけでは足りないから」
「ああ。物が必要だ」
ミラは空を見た。
灰色の雲の切れ間から、薄い夕陽が差している。
「ネロさんは、助からないと思ってる」
「そうだな」
「でも、助けたいと思ってしまう」
「それは君の悪いところではない」
エリオットは静かに言った。
「ただ、助けたいと思うことと、全部を背負うことは違う」
ミラは彼を見た。
「最近、エリオットさんは私の兄さんみたいなことを言います」
「それは困る」
「困るんですか?」
「少し」
エリオットは真面目に答えた。
ミラは思わず笑ってしまった。
重い一日だった。
それでも、少しだけ笑えた。
夜、オリヴァーは臨時封印庫で記録をつけていた。
今日の項目は多い。
水脈型の確認。
村の水管理手順。
ネロの証言。
三番倉庫の床下。
黒い蜜蝋。
封印札の欠片。
そして、黒輪の発作。
彼は最後に、父親としてではなく、職人として一文を書いた。
――ネロ本人の証言のみでは、セヴラン側への追及は困難。
――物証の回収必須。
――三番倉庫調査を優先。
――ただし、ネロの生命維持は極めて不安定。術者が本格介入すれば抑制具では足りない可能性大。
書き終えた後、しばらく筆を置けなかった。
助けられる命と、助けきれない命がある。
それを娘にどう伝えるべきか。
オリヴァーは静かに息を吐いた。
「まだ、諦めるわけじゃない」
小さく呟く。
それはネロのためか、ミラのためか、自分でも分からなかった。
同じ頃、遠く王都の黒い研究室で、セヴラン・ノックスは水晶盤を見下ろしていた。
盤面の端で、細い反応が揺れている。
黒輪。
ネロの命に繋がる、黒い輪。
「余計なことを話しましたね」
セヴランは穏やかに言った。
そばの研究員が尋ねる。
「処分しますか」
セヴランは少し考えるように、指を盤面へ添えた。
「まだです」
「なぜ」
「治療師は、まだ村にいる。守護騎士候補も」
黒い盤の中で、白い小さな光が二つ揺れている。
「彼らがどこまで気づくか、見ておきましょう」
研究員は黙った。
セヴランは微笑む。
「ただし、あの運び屋が残したものを拾われるのは、少し面白くありませんね」
「三番倉庫ですか」
「ええ」
セヴランの目が細くなる。
「ガレス側も、リンドルの倉庫までは消し忘れているでしょう。なら、少しだけ急がせましょうか」
黒い盤の上で、リンドルの方角に細い黒い線が伸びた。
その時、グレイル村の倉庫で眠るネロの黒輪が、ほんのわずかに熱を持った。
彼は眠ったまま、苦しげに眉を寄せる。
まだ処分ではない。
けれど、猶予が短くなったことを、黒い輪だけが知っていた。




