捨て駒の置き土産 1
グレイル村の朝は、水を運ぶ音から始まるようになった。
以前なら、各家がそれぞれ井戸から水を汲み、朝食を作り、洗い物をし、家畜に水をやっていた。けれど今は違う。
村の南にある泉へ、男たちが交代で向かう。
運ばれてきた水は、広場の大桶に移される。
そこで反応針をかざし、針先が澄んでいることを確認してから、各家へ配る。
白石粉を混ぜた小皿。
反応針。
記録板。
配水係の名札。
昨日まではなかったものが、村の日常の中に組み込まれ始めていた。
ミラは、その光景を診療所の窓から見ていた。
広場では、村の女性が若い娘に反応針の見方を教えている。
「針が黒くなったら使わない。曇っただけでも、村長さんか治療師さんに報告。慌てて捨てず、まずこの印の桶に分ける」
「はい」
「記録板には、時間と汲んだ場所を書く」
ぎこちないが、手順は回っている。
ミラは胸の奥に、少しだけ熱いものを感じた。
昨日までは、すべてを自分が見なければならないと思っていた。
けれど今、村人たちは自分たちで覚えようとしている。
それは、グレイル村が生き延びるための力だった。
「見ているだけで、手を出さないのも治療のうちだよ」
背後から父の声がした。
振り返ると、オリヴァーが記録帳を抱えて立っていた。
「父さん」
「手順を残すというのは、そういうことだ。誰か一人の手がなくても続く形にする」
ミラは窓の外へ目を戻した。
「私がいなくても、続けられるように」
「そう」
「……まだ、少し怖い」
「怖くていい」
オリヴァーは穏やかに言った。
「怖いから、丁寧に残せる」
その言葉は、胸に静かに沈んだ。
午前中、ミラは黒根状反応の患者を二人診た。
黒棘と違い、黒根は無理に浮かせようとすると深いところで反発する。オルガの追記通り、喉側から浅く、少しずつ処置する必要があった。
「今日はここまでです」
ミラが手を離すと、寝台の少年が小さく息を吐いた。
「まだ、喉に変な感じがある」
「残っています。でも、昨日より浅くなっています」
「全部取れないの?」
「一度に取ると身体がびっくりします。明日また少し取りましょう」
少年は不安そうだったが、隣にいた母親がそっと肩を抱いた。
「大丈夫。治療師さんの言う通りにしよう」
ミラはその言葉に少し驚いた。
以前なら、患者の家族は「もっと治してほしい」と頼むことが多かった。今ももちろん不安はある。けれど、村全体に「少しずつ進める」という考え方が広がり始めている。
ミラ一人の我慢ではなく、村が治療の手順を受け入れ始めていた。
エリオットは椅子に座ったまま、左手で記録をつけている。
――少年、黒根状反応。喉側を浅く処置。腹部の反応には触れず。
――ミラ、処置後すぐ水を飲む。
――本日二人目。あと一名まで。
ミラは記録を横から覗き、眉を寄せた。
「私が水を飲んだことまで書くんですか」
「ライヘル殿が食事と睡眠も記録しろと書いていた」
「兄さんの言いつけをそんなに忠実に守らなくても」
「正しい指示だ」
エリオットは真面目な顔だった。
ミラは少し頬を膨らませたが、反論できなかった。
オリヴァーも、部屋の隅で何も言わずに頷いている。
味方がいない。
昼過ぎ、ネロのいる倉庫から呼び出しがあった。
見張りの村人が、診療所へ駆け込んできたのだ。
「治療師さん、あの男が……オリヴァーさんを呼んでくれって」
「父さんを?」
ミラが立ち上がりかけると、オリヴァーが先に手を上げた。
「私が行く。ミラは診療所にいて」
「でも」
「ネロが私を呼んだなら、まず私が聞く」
エリオットが静かに杖を取った。
「俺も行く」
「右腕は?」
「使わない。黒輪の反応を見るだけだ」
ミラは迷った。
ネロの黒輪は危険な術式だ。ミラがそばにいれば、黒い糸を浮かせられるかもしれない。けれど同時に、ミラの白花の力が黒輪を刺激する可能性もある。
オリヴァーは、娘の迷いを見抜いたように言った。
「必要なら呼ぶ。最初から君が近づく必要はない」
その言葉は最近、何度も聞いた。
そして何度も、正しかった。
ミラは小さく頷いた。
「分かりました。無理はしないで」
「君もね」
父に返され、ミラは黙った。




