水に沈む黒 3
その日の午後、村長とともに水場の使用制限が出された。
北側の古井戸は封鎖。
ほかの井戸も反応確認が終わるまで使用禁止。
飲み水は一時的に南の泉から運ぶ。ただし、その水も反応針で確認してから使う。
井戸水を飲んだ者は診療所で確認を受ける。
薬草茶や煮炊きにも、確認済みの水だけを使う。
村人たちはざわめいた。
水を止めるというのは、生活を止めるのに近い。
だが、ミラ一人が説明したのではなかった。
村長が前に立ち、オリヴァーが仕組みを説明し、ミラが患者の反応を話した。ロアンが井戸の水を反応針で見せ、ダリオが水運びの安全な道を確認した。
役割が分かれていた。
だから、村人たちは混乱しながらも従った。
不安は消えない。
だが、何をすればいいかは分かる。
それが今は大事だった。
夕方、ミラは三人目の治療を終えた。
約束通り、そこで手を止めた。
診療所の机に戻ると、エリオットが左手で記録を書いていた。
文字は少しぎこちない。
けれど、丁寧だった。
――ミラ、直接治療三名で終了。
――四人目以降は薬草管理と明日への引き継ぎ。
――本人、まだ治療したそうだったが、停止。
――水を飲ませた。薬草茶も飲ませる予定。
ミラは読んで、頬を少しだけ膨らませた。
「本人、まだ治療したそうだったが、って書く必要あります?」
「事実だ」
「そこまで詳しく」
「記録は正確に」
エリオットは真面目だった。
ミラは反論できず、少し笑ってしまった。
「分かりました。正確ですね」
「君が教えた」
その言葉に、ミラは胸の奥が温かくなるのを感じた。
夜、オリヴァーは臨時封印庫で記録をつけていた。
瘴気の核を収めた二重遮断箱は、薄く脈打っている。
坑道の箱。
排水路の黒い湿土。
北側古井戸の患者。
風と水の二系統。
黒い根は、想像以上に広く伸びていた。
彼は記録帳に書いた。
――グレイル村汚染経路、風および水の二系統を確認。
――箱は単なる漏出源ではなく、環境拡散試験装置の可能性。
――村全体が実験場として選ばれた疑い。
――ミラにはまだ詳細な推測を全て伝えず。怒りによる過負荷を避けるため。
最後の一文を書き、オリヴァーは小さく息を吐いた。
父として、すべてを伝えるべきか。
職人として、情報を整理してから伝えるべきか。
迷いはある。
けれど、ミラはもう子どもではない。
いずれ、すべてを伝えなければならない。
同じ頃、王都の王立魔術院。
オルガは古い禁術資料をめくっていた。
ライヘルが隣で写しを取っている。
「……あった」
オルガの声が低くなる。
ライヘルが顔を上げた。
「何ですか」
「黒棘術式の古い派生。風媒型と水脈型」
ライヘルの表情が変わる。
オルガは読み上げた。
「瘴気粉は肺腑へ刺さり、黒棘となる。瘴気水は喉より魔力路へ沈み、黒根となる。水脈型は拡散が遅いが、生活圏へ入り込むと排除が困難……」
ライヘルは息を呑んだ。
「グレイル村……」
「現地で水場を確認しているといいけどね」
オルガは資料を閉じた。
「すぐ送ろう。父君とミラさんへ」
ライヘルはすでに紙を用意していた。
手が震えそうになるのを押さえ、急いで書き始める。
――黒棘術式には風媒型と水脈型が存在。
――水脈型は黒根状反応を示す。
――井戸、排水路、地下水脈を確認のこと。
――飲用水を制限し、反応針で確認せよ。
書きながら、ライヘルは祈るように思った。
どうか、間に合ってくれ。
その頃、遠いグレイル村では、北側の古井戸に封印布が掛けられていた。
白石粉の輪。
反応針。
村人の見張り。
ミラはその井戸を遠くから見つめていた。
水に沈む黒。
風に舞う黒。
人の身体に棘となって残る黒。
どこまでも悪意は深い。
それでも、今日、村はまた一つ対策を取った。
知らなかったことを知り、危険を分け、できることを増やした。
ミラは白花のペンダントを握る。
隣に立つエリオットが、静かに言った。
「明日は、今日より少し分かっている」
ミラは彼を見る。
「はい」
「それだけで、戦い方は変わる」
「そうですね」
風が吹いた。
灰色の夜の中で、診療所の灯りが小さく揺れる。
グレイル村はまだ救われていない。
けれど、もうただ黒に呑まれるだけの村ではなかった。




