水に沈む黒 2
その頃、オリヴァーたちは村の北西にある古い排水路跡に着いていた。
そこは草に覆われ、知らなければただの崩れた石積みに見える場所だった。かつて坑道の水を逃がすために作られた水路だが、今は半分埋まり、村人もほとんど近づかないという。
村長は少し離れた場所で足を止めた。
「あれです。昔はここから水が流れていたそうですが、今はもう涸れているはずです」
ダリオが手で制した。
「村長はここまで。これ以上は近づかない方がいい」
「分かりました」
村長は素直に下がった。
オリヴァーは反応針を取り出し、排水路の入口へ近づける。
針先が、じわりと黒く染まった。
「反応あり」
ロアンが吸着布を棒の先に括りつけ、石積みの隙間へ差し込む。
引き戻した布の端には、黒い粉ではなく、湿った黒い筋がついていた。
「濡れてますね」
「涸れていない」
オリヴァーは小瓶にその湿った土を採取した。
白石粉の皿へ落とすと、粉の表面に細い黒い線が走る。昨日の坑道入口の粉とは違い、広がり方が遅く、沈むように染みていった。
ロアンが息を呑む。
「水に乗ってる……?」
「その可能性が高い」
オリヴァーは鉱山図を広げ、排水路の線を指で辿った。
「脇坑から排水路へ。排水路から地下の細い水脈へ。北側の古井戸に繋がっているかもしれない」
ダリオが周囲を警戒しながら言った。
「村の井戸を止める必要があるな」
「ええ。少なくとも北側の古井戸はすぐに封鎖する」
ロアンは顔をしかめた。
「これ、箱は村を直接襲うためじゃなくて、広がり方を見るために置いたんじゃないですか」
オリヴァーは沈黙した。
その推測は、彼も考えていた。
坑道の風。
排水路の湿気。
地下水。
村人の生活圏。
黒いものが、どの経路で、どの程度、人の身体へ入り込むのか。
グレイル村は、観察されていたのではないか。
「……人の暮らしを、実験場にしたのか」
オリヴァーの声は静かだった。
だが、ロアンはその静けさに怒りを感じた。
「師匠」
「記録する。証拠を残す」
オリヴァーは採取瓶を封じ、反応針をもう一本置いた。
「この排水路は、今日中に応急封じをする。村の水場も全部確認する」
「ミラちゃんには?」
「知らせる。ただし、調査に来させない」
ダリオが短く言った。
「怒るぞ」
「分かっています」
「エリオットも止めるだろうがな」
「それは助かります」
診療所では、ミラが二人目の患者の診察を終えていた。
その患者も、坑道作業者ではなかった。
村の北側に住む子どもで、症状は軽いが、喉と腹に黒根状の反応がある。
ミラは記録を見て、確信に近いものを抱いた。
「エリオットさん」
「ああ」
「風で吸った患者さんと、水に触れた患者さんで反応が違います」
「水の方が深いのか」
「深いというより、広がり方が違うんです。粉は胸に刺さる。水は喉から体内へ染みる」
エリオットの顔が険しくなる。
「村全体の水を止める必要があるな」
「はい。飲み水はリンドルから持ってきた貯水袋と、南の泉を確認してから。井戸水は全部一度止めます」
「村人は不安になる」
「分かっています。でも、説明します」
「一人で?」
ミラは言葉を止めた。
エリオットは静かに続ける。
「村長と、君の父親と一緒にだ。君だけが前に立つ必要はない」
その通りだった。
また抱えようとしていた。
ミラは少し息を吐く。
「……はい。一緒に説明してもらいます」
「良い判断だ」
「またそれですか」
「便利だからな」
ミラは少しだけ笑った。
その時、診療所の扉が開き、オリヴァーたちが戻ってきた。
父の顔を見た瞬間、ミラは答えを悟った。
「水にも、出たんだね」
オリヴァーは頷いた。
「排水路の湿った土から反応が出た。北側の古井戸に繋がっている可能性がある」
「患者さんにも、同じ反応が出ています」
ミラは記録帳を差し出した。
オリヴァーはそれを読み、目を細めた。
「風と水、両方か」
ロアンが低く言った。
「箱が二つあるなら、片方が拡散、片方が共鳴ってだけじゃなくて、風用と水用に分かれている可能性もありますね」
その言葉に、部屋の空気が重くなる。
エリオットが静かに言った。
「村を病気にするためではない。試している」
誰もすぐには答えなかった。
けれど、全員が同じことを考えていた。
グレイル村は、ただ巻き込まれたのではない。
選ばれた。
人目につきにくく、古い坑道と排水路があり、風と水が村へ巡る場所として。
ミラの手が震えた。
怒りだった。
怖さではない。
「許せない」
小さな声だった。
オリヴァーが娘を見る。
「うん」
「患者さんたちは、ただここで暮らしていただけなのに」
「そうだね」
「ネロさんだって、使い潰されて」
「うん」
「エリオットさんの腕も」
そこで言葉が詰まった。
エリオットは黙っていた。
彼の右腕は、補助具の中で動かない。
けれど、その目は静かだった。
「怒るのはいい」
彼は言った。
「でも、怒りで無理をするな」
ミラは彼を見る。
「……はい」
「俺もそうする」
その言葉に、ミラはゆっくり頷いた。
怒りは力になる。
けれど、無理の理由にしてはいけない。




