水に沈む黒 1
翌朝、グレイル村には薄い霧が出ていた。
坑道の方角から流れてくる灰色の風とは違う。地面の冷えと、夜露が作る白い霧だ。村の屋根や石垣を柔らかく包み、いつもなら少し幻想的に見えたかもしれない。
けれど今のミラには、その白さすら少し怖かった。
黒いものは、見えない場所に潜む。
風に混じる。
粉になって舞う。
人の胸に棘となって刺さる。
そして、昨夜ネロが告げた。
箱は大坑道ではなく、古い脇坑に置かれているかもしれない。
その脇坑は、排水路と繋がっている。
ならば、黒いものは風だけではなく、水にも混じっている可能性があった。
「ミラは診療所で待機」
朝食後、オリヴァーはきっぱりと言った。
診療所の机には、古い鉱山図が広げられている。大坑道、脇坑、排水路、古い井戸、村の水場。村長が夜のうちに探し出してくれたもので、古びてはいるが、坑道の構造を知るには十分だった。
「父さん、でも」
「待機」
「せめて水場の反応だけでも」
「それは父さんが見る」
「白花の反応が必要かもしれない」
「必要になったら呼ぶ」
いつもの穏やかな顔で、逃げ道のない言い方をする。
ミラは唇を結んだ。
そこで、隣にいたエリオットが静かに言った。
「俺も待機する」
「エリオットさんも?」
「ああ。俺が近づけば右腕が反応する。脇坑の場所を探るには邪魔になる」
彼はもう、自分でそう判断できる。
昨日までは、それを聞くたびにミラは少しほっとしていた。けれど今は、同じように自分も止まらなければならないのだと思うと、少し悔しかった。
オリヴァーは二人を見て、柔らかく頷いた。
「二人とも診療所で患者を見る。ミラは治療。エリオット君は必要最低限の感知だけ。外の調査は、私とロアン、ダリオさんで行く」
ロアンが道具袋を肩にかけながら言う。
「反応針、白石粉、吸着布、採取瓶、全部持ちました」
ダリオは外套の下に短剣を隠し、村の外を見た。
「脇坑周辺に人影があれば、俺が見る。村人は連れていかない方がいいな」
「案内だけ、村長さんに途中までお願いしましょう」
オリヴァーは地図を畳んだ。
「危険な場所には近づけない」
ミラは反論を飲み込んだ。
自分が行けば、白花の光が黒いものを引き寄せるかもしれない。
エリオットが行けば、右腕が反応してしまうかもしれない。
今は、行かないことが役割だった。
「……分かりました。診療所を見ます」
「ありがとう」
オリヴァーは娘の肩にそっと手を置いた。
「君がここにいてくれるから、父さんは外を見に行ける」
その言葉に、ミラは少しだけ息を詰めた。
止められているだけではない。
任されている。
そう思うと、悔しさが少しだけ形を変えた。
オリヴァーたちが村を出た後、ミラは午前の患者を診始めた。
一人目は、咳のひどい老人だった。
鉱山道へは近づいていない。坑道の作業にも出ていない。黒い粉を吸い込む機会は少ないはずだった。
けれど、反応針は胸元で黒く染まった。
「この方は、いつから症状が?」
ミラが尋ねると、付き添いの女性が答えた。
「三日前からです。最初は喉の痛みだけでした。坑道には行っていません。ただ、毎朝、古井戸の水を汲みに……」
「古井戸?」
ミラの手が止まる。
エリオットも顔を上げた。
「場所はどこですか」
「村の北側です。今はあまり使っていませんが、この人は昔からあの井戸の水が好きで」
ミラは患者の手首に触れた。
胸の黒い棘は、これまで診た患者と少し違った。
粉を吸った患者の棘は、肺や喉に引っかかるように刺さっていることが多い。だが、この老人の黒い反応は、喉から胃のあたりへ細く染み込むように伸びていた。
棘というより、黒い細根。
「エリオットさん、見えますか」
ミラが聞くと、エリオットは護符を左手で押さえ、目を細めた。
「胸ではない。喉から下へ沈んでいる。肺より、腹の方だ」
「やっぱり……」
「風で吸ったものとは違うのか」
「たぶん、水です」
ミラは記録帳を開いた。
――古井戸使用者。喉痛、腹部違和感。黒棘ではなく黒根状反応。水経由の可能性。
書きながら、胸が冷えていく。
もし水にも混じっているなら、対策は増える。
井戸を止めなければならない。
水を煮沸するだけで足りるか分からない。
村人全員の飲み水を確認しなければならない。
ミラは顔を上げた。
「今日はその井戸の水を飲まないよう、村長さんに伝えてください。ほかの水場も確認が必要です」
付き添いの女性が青ざめる。
「水まで……?」
「まだ確定ではありません。でも、念のためです」
ミラは老人の手を握った。
「治療はできます。まずは喉の黒い反応を少し浮かせます。今日は深いところには触りません」
全部はできない。
だから、悪化させないところから始める。
ミラは白花の光を細く流した。




