役割を分ける朝 1
グレイル村の朝は、昨日より少しだけ明るかった。
空の色が晴れたわけではない。
坑道の方角には相変わらず灰色の雲が低く垂れ、風には乾いた石の匂いが混じっている。
それでも、診療所代わりの空き家の中は違っていた。
窓辺に置かれた小型換気具が、低く静かな音を立てている。白石粉を織り込んだ濾過布がゆっくりと揺れ、部屋にこもる黒い気配を少しずつ薄めていた。
反応針は薄曇り。
黒変はしていない。
ミラはその針先を見て、胸の奥で小さく息を吐いた。
これだけで、ずいぶん違う。
先日までは、朝起きた瞬間から全身に重い布をかぶせられているようだった。患者の咳、封印箱の反応、坑道からの風、ネロの黒輪、エリオットの右腕。何もかもが同時にミラの方へ伸びてきて、両手で受け止めるには多すぎた。
けれど今は、机の上に父の記録帳がある。
臨時封印庫には、父が管理する二重遮断箱がある。
坑道入口の調査には、父とロアンとダリオが向かう。
村人たちは、白石粉と浄化布の扱いを覚え始めている。
すべてを一人で抱えなくていい。
それを頭では分かっていた。
けれど、心が追いつくには、もう少し時間がかかりそうだった。
「ミラ」
父の声がした。
振り返ると、オリヴァーが薬草茶の杯を持って立っていた。
「朝食前に、これを飲みなさい」
「父さん、私はもう起きてるよ」
「起きていることと、身体が動けることは別だよ」
「……はい」
反論しようとして、やめた。
父の目が穏やかな時ほど、逃げ道がないことをミラはよく知っている。
素直に杯を受け取ると、オリヴァーは満足そうに頷いた。
「今日の直接治療は三人まで」
「分かってる」
「重症者優先」
「分かってる」
「黒い棘を抜く治療は、午前に二人、午後に一人まで」
「……父さん」
「何かな」
「全部先に決めてるね」
「君が決めると、五人に増えるからね」
ミラは言葉に詰まった。
その通りだった。
入口側の椅子に座っていたエリオットが、静かに視線を逸らす。
ミラはすぐにそちらを見た。
「エリオットさん、今、笑いました?」
「笑っていない」
「口元が動きました」
「薬草茶が熱かっただけだ」
「まだ飲んでいませんよね」
エリオットは杯を手にしたまま、黙った。
オリヴァーが小さく笑う。
「二人とも、今日も無理をしないこと。エリオット君の感知も、直接治療の三人だけだ。それ以上は反応針とミラの診察で判断する」
「分かりました」
エリオットは素直に答えた。
その横顔にはまだ疲労が残っている。右腕は新しく調整された補助具で固定され、肩側に小さな逃がし金具がついていた。昨日よりは熱がこもっていないようだが、無理をすればすぐに悪化するだろう。
ミラは記録帳を開いた。
「では、今日の予定を書きます」
「良い傾向だ」
エリオットが言った。
「それ、私の言葉です」
「借りた」
そう答えた彼の声は、ほんの少しだけ穏やかだった。
午前中、オリヴァーたちは坑道入口へ向かった。
ただし、坑道の中へは入らない。
これは全員で何度も確認した。
ダリオが先頭に立ち、村の男たちを風上に待機させる。ロアンは白石粉を織り込んだ封印布と吸着板を運び、オリヴァーは反応針と風向き板を手にしていた。
坑道入口は、黒い口を開けたまま沈黙している。
雨で崩れた岩の隙間から、灰色の風が漏れていた。昨日より強くはない。だが、その風が肌に触れるだけで、かすかに冷たい。
オリヴァーは反応針をかざした。
針先が黒く染まる。
「やはり、ここが一番濃い」
ロアンが顔をしかめる。
「師匠、これ、布だけで受けきれます?」
「受けきれない」
「ですよね」
「だから受けきろうとしない。流れを細くして、吸着板で粉を取り、封印布で拡散を遅らせる。完全に止めるのではなく、村へ届く量を減らす」
「応急処置ですね」
「現場でできる最善だ」
オリヴァーは淡々と言った。
ダリオが周囲を見回す。
「作業時間は短くしろ。長居は危険だ」
「分かっています」
オリヴァーは村人たちへ指示を出した。
「石はそこへ。布は直接持たず、棒で広げてください。白石粉を撒くのは風上から。黒い粉が舞ったら全員下がる」
村人たちは緊張しながらも従った。
昨日までなら、誰も何をすればいいか分からず右往左往していただろう。けれど今は、役割があった。
石を運ぶ者。
布を張る者。
白石粉を撒く者。
見張る者。
鐘を持つ者。
それぞれが、自分にできることをしている。
オリヴァーはそれを見て、少しだけ目を細めた。
ミラがこの村で作ったものは、治療の手順だけではない。
村人たちが、危険に対して動くための道筋だった。
その頃、ミラは診療所で一人目の重症者を診ていた。
患者は鉱山道の補修に出ていた若い男だった。昨日から咳が強く、胸の奥に黒い棘が二本残っている。
ミラは患者の手首に触れ、呼吸を確かめた。
「今日は一本だけ抜きます」
「一本だけ?」
患者の母親が不安そうに聞く。
「はい。一度に全部抜くと身体に負担がかかります。昨日より部屋の空気も安定していますから、焦らず進めます」
そう言えるようになった。
それだけでも、ミラには大きな変化だった。
以前なら、早く楽にしなければと焦っていた。
全部抜こうとしていた。
患者の苦しむ顔を見るたび、手を止めることが怖かった。
けれど、今は違う。
治療は、今日だけで終わるものではない。
患者が明日も息をしていられるように、ミラ自身も明日また手を伸ばせるように、残す判断も必要だった。
「エリオットさん、お願いします」
「ああ」
エリオットは少し離れた椅子に座ったまま、護符を左手で押さえた。
右腕は動かさない。
目を細め、患者の胸元を見る。
「左胸の奥。昨日より浅い。もう一本は喉に近いが、今日は触らない方がいい」
「分かりました」
「抜くなら、左胸の方だ。動きは遅い」
ミラは頷き、白花の光を細く流した。
黒い棘が浮く。
患者が苦しげに息を詰める。
「大丈夫です。ゆっくり吐いてください」
黒い靄が一筋、口元から漏れた。
ミラは浄化布で受け止める。泉の水を一滴。白石粉の上へ。
黒い靄は薄くなり、やがて消えた。
反応針は一度黒く染まったが、換気具が低い音を立て続けるうちに、ゆっくり薄曇りへ戻っていった。
ミラはそれを見て、深く息を吐く。
「……安定しました」
患者の母親が涙ぐむ。
「ありがとうございます、治療師さん」
「今日は無理をしないでください。温かい薬草茶を飲んで、寝台から起き上がらないこと。喉の方は明日以降に診ます」
「はい」
ミラは立ち上がりかけた。
その瞬間、エリオットが先に言う。
「次の患者まで休憩だ」
「まだ一人目です」
「だから休憩だ」
「……はい」
父がいなくても、止める人がいる。
ミラは少しだけむずむずした気持ちになりながら、椅子に座った。
エリオットは彼女へ水の杯を差し出す。
「飲め」
「治療師みたいですね」
「君がそうした」
その答えに、ミラは小さく笑った。




