兄への手紙 2
午後、ミラは村長の家で古い記録をもう一度見せてもらった。
祠の祭りの記録。
白花の供え方。
護符を作った時代の断片。
守護騎士と治癒の娘を並べた古い歌。
けれど、新しい手がかりはほとんどなかった。
エダが持っていた紙片に書かれていた以上のことは、村には残っていないらしい。
白花の娘。
白刃の騎士。
二つ揃いて、女神の道は開かれる。
何度も同じ言葉を写しながら、ミラは小さく息を吐いた。
「行き詰まり、ですね」
村長の妻が温かな茶を置きながら言った。
「古いものは、残っていないかい?」
「いくつかはあります。でも、肝心な部分が欠けています。守護騎士が王家とどう関わっていたのか、試し石が何だったのか、王都に残る聖遺物のことは……おそらく、ここでは分かりません」
「王都か」
「はい」
その言葉を口にした瞬間、ミラの胸の奥が少し重くなる。
王都。
そこには兄がいる。
魔術院がある。
エリオットの過去の記録もあるはずだ。
けれど、そこはエリオットが剣を失った場所でもある。
簡単に頼っていい場所なのか。
そう考えてしまう。
診療所へ戻る道すがら、ミラは何度も胸元のペンダントに触れた。
白い花の飾りは、今日も静かにそこにある。
母から譲られたもの。
ただの家族の形見だと思っていたもの。
それが今、治癒の女神の伝承と繋がろうとしている。
自分のことだけなら、兄に相談するのはもっと簡単だったかもしれない。
けれど、今回はエリオットが関わっている。
彼の腕。
彼の過去。
彼が知らないうちに背負わされたかもしれない、守護騎士という名。
それを王都へ知らせることが、彼を再び傷つけない保証はない。
診療所に戻ると、机の上には昼に用意した手紙用の紙が置かれていた。
――兄さんへ。
昨日書きかけて、そこで止まったままの紙。
ミラは椅子に座り、しばらくその文字を見つめた。
ライヘルとは、不定期に手紙を交わしている。
新しい村に着いた時。
少し長く滞在する時。
薬草や魔力結晶が足りなくなった時。
危ない街道を通る前。
兄の返事はいつも、少し硬い。
無理をするな。
食事は取っているか。
野宿はできるだけ避けろ。
熱病の記録は残しておけ。
小型魔力結晶を送る。
道中の護衛はちゃんと雇え。
心配性で、研究者らしく、少しだけ不器用な兄。
ミラはその兄を信頼している。
けれど、王立魔術院そのものを信頼できるかと言われれば、答えに迷う。
そこへ、扉が叩かれた。
「ミラ」
エリオットの声だった。
ミラは紙を伏せてから、扉を開けた。
「どうしましたか。痛みが出ましたか」
「いや。村長から、君が古い記録を調べていたと聞いた」
「はい」
「何か分かったのか」
「……分からないことが増えました」
エリオットは少しだけ眉を上げた。
「それは進展なのか」
「たぶん、進展です。行き詰まったということが分かりました」
「君は、そういうところが妙に前向きだな」
「前向きというより、事実です」
ミラは彼を中へ招いた。
エリオットは机の上に伏せられた紙に気づいたらしい。
「兄への手紙か」
ミラは少しだけ目を伏せた。
「まだ、書けていません」
「なぜ」
「何をどこまで書くべきか、迷っています」
「俺のことか」
鋭い問いだった。
ミラは正直に頷いた。
「はい」
エリオットは黙って椅子に座った。
「昨日も言った。俺の名前は出していい」
「分かっています」
「なら」
「でも、エリオットさんの右腕を“症例”として扱われるのは嫌です」
言ってから、ミラは自分の声が思ったより強くなっていたことに気づいた。
エリオットは目を見開いている。
ミラは慌てて言葉を整えた。
「兄がそうするという意味ではありません。兄は信頼しています。でも、王立魔術院に情報が渡る以上、どこまで広がるか分かりません。あなたの記録が、またあなたの知らないところで扱われるのは……避けたいんです」
エリオットはしばらく何も言わなかった。
窓の外から、風の音がする。
やがて彼は静かに口を開いた。
「俺はもう、王都で記録になっている」
ミラは息を止めた。
「治療不能。退団。右腕機能不全。そういう言葉で残っているだろう。俺自身が知らないところで、何度も見られたはずだ」
「……」
「だが、君が書くなら違う」
エリオットはミラを見た。
「君は俺を記録として書かない。そうだろう」
ミラは、すぐには返事ができなかった。
胸の奥が熱くなる。
「はい」
ようやくそう答える。
「私は、あなたを記録としては書きません」
「なら、そう書いてくれ」
エリオットは右手首の護符に視線を落とした。
「俺も知りたい。俺の腕に何が起きたのか。なぜ試し石が光ったのか。なぜ俺の討伐記録が気にされていたのか。なぜ俺は、あの任務で右腕を失ったのか」
その声は静かだった。
けれど、奥に強いものがあった。
「もし王都に手がかりがあるなら、知るべきだ」
ミラは深く頷いた。
「分かりました」
机に向かい、伏せていた紙を裏返す。
――兄さんへ。
今度は、筆が止まらなかった。
ただし、感情のままには書かない。
ミラは治療師として、事実を整理した。
現在、王都から離れた村で一人の患者を診ていること。
患者はエリオット・バーンスタン。元王都騎士団所属。
二年前、魔物討伐で右腕を負傷し、騎士団を退団したこと。
右腕には通常の神経損傷とは異なる魔力路の乱れがあること。
黒い瘴気状の反応が残っていること。
治癒の女神の祠、村の護符、自分の白花のペンダントが共鳴したこと。
治療中、黒い瘴気に抵抗する白い刃状の光が見えたこと。
村の伝承に「治癒の娘」と「守護騎士」の記述があること。
エリオット本人が、騎士叙任時に試し石へ剣を向けた際、白い筋を見た記憶があること。
過去の討伐で、彼が斬った魔物の瘴気残滓が少ないと言われたことがあること。
そして最後に、こう書いた。
――兄さん。王立魔術院、または騎士団の記録に、エリオット・バーンスタンの負傷記録、試し石の反応、守護騎士に関する資料が残っていないか調べてもらえませんか。
――ただし、この件はできるだけ限られた範囲で扱ってください。彼は研究対象ではなく、私の患者です。
そこまで書いて、ミラは筆を止めた。
最後の一文を見て、少しだけ恥ずかしくなる。
兄相手に強く書きすぎただろうか。
だが消す気にはなれなかった。
エリオットは横から黙って手紙を読んでいた。
「これでいいですか」
ミラが尋ねると、彼は静かに頷いた。
「ああ」
「本当に?」
「君は、俺を守るように書いている」
ミラの手が止まる。
「守る、というほどでは」
「そう見える」
エリオットは小さく息を吐いた。
「悪くない」
ミラはなぜか視線を逸らした。
「では、封をします」
封蝋を温め、手紙を閉じる。
差出人には、ミラ・コックス。
宛名には、ライヘル・コックス。
王都、王立魔術院。
それを書いた瞬間、空気が少し変わった気がした。
村の小さな診療所から、王都へ糸が伸びていく。
その糸の先に何があるのか、ミラにはまだ分からない。
けれど、もう手紙は書いてしまった。
あとは、届くのを待つだけだ。
「明日の朝、村長に預けます」
「ああ」
「返事が来るまでには、時間がかかると思います」
「分かっている」
「その間に、あなたの腕をもう少し安定させます」
「……旅に出られるくらいにか」
ミラは顔を上げた。
エリオットの視線は、手紙ではなくミラに向いていた。
「あなたは、同行するつもりですか」
「君がこの村を出るなら、俺も行く」
ミラはすぐに反論しようとした。
だが、エリオットは先に続けた。
「もちろん、今すぐとは言わない。今の俺が足手まといなのは分かっている」
「足手まといとは――」
「だが、俺の腕のことだ。俺自身が知らなければならない」
エリオットは右手を見下ろした。
「君一人に調べさせるわけにはいかない」
その言葉に、ミラは胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。
患者としての同行。
それなら理屈は通る。
けれど、今のエリオットの言い方には、それだけではない何かがあった。
「移動は負担になります」
「なら、移動できるように治してくれ」
ミラは言葉を失った。
エリオットは真剣だった。
もう、村に閉じこもるだけの人ではない。
剣を失ったまま、誰かに気を遣われて生きるだけの人ではない。
自分の腕のことを知ろうとしている。
自分の足で、次へ進もうとしている。
ミラは少しだけ息を吸った。
「では、目標を決めましょう」
「目標?」
「村を出るまでに、長時間の歩行に耐えられること。右腕の熱が強くならないこと。軽い荷物を左手で持ちながら、右手を保護できること。痛みが出たら必ず報告すること」
「……多いな」
「同行するなら当然です」
「分かった」
「木剣はまだ禁止です」
「それは分かっている」
「本当に?」
「本当だ」
ミラはしばらく彼を見つめた。
エリオットは少し困ったように眉を寄せる。
「信用がない」
「積み重ねです」
「なら、これから積み重ねるしかないな」
その言葉は、静かだった。
けれど、確かな意思があった。
ミラは頷く。
「では、明日から歩行と腕の熱の確認も加えます」
「ああ」
二人の間に、ひとつ新しい約束が生まれた。
剣を握るためだけではない。
村を出て、真実を知るための約束。




