兄への手紙 1
滞在延長を決めてから、ミラの一日は以前よりも忙しくなった。
朝は村人たちの診療。
昼前にエリオットの右腕の確認とリハビリ。
午後は往診や薬草の調合。
夕方にはもう一度エリオットの腕を診て、その日の変化を記録する。
そして夜になると、祠と伝承、白花の紋、守護騎士についての記録を整理する。
元薬師の空き家は、すっかり診療所らしくなっていた。
薬草棚にはミラが分類し直した乾燥薬草が並び、机の上には治療記録の帳面、魔力結晶、包帯、乳鉢、小瓶が整えられている。窓辺には村の子どもが摘んできてくれた白い花が、小さな瓶に挿されていた。
生活の方も、いつの間にか村に支えられていた。
朝になると誰かがパンや卵を差し入れてくれる。
昼には村長の妻がスープを持ってきてくれる。
薪は気づけば入口横に積まれている。
水桶も、たいてい朝には満たされている。
ミラは何度も礼を言ったが、村人たちは決まってこう返した。
「治療師さんが元気じゃないと、こっちが困るんだよ」
その言葉に、ミラはいつも少しだけ胸を温かくした。
王都では、ミラの治癒魔法は地味だと言われた。
大規模術式を扱えない。魔力量も平凡。治療院の正式な枠には届かない。
けれどこの村では、ミラの手は確かに必要とされていた。
傷口を洗う手。
熱を測る手。
薬草を煎じる手。
包帯を巻く手。
派手ではない。
けれど、誰かの一日を少しだけ楽にする手。
それがミラの仕事だった。
その日の昼前、エリオットはいつもの時間に診療所へやってきた。
「おはようございます」
「ああ」
返事は短いが、最初の頃のような刺々しさは薄れていた。
ミラが椅子を示すと、エリオットは黙って腰を下ろす。以前なら右腕を診せるだけでも渋っていた彼が、今では自分から袖をまくるようになっている。
その変化が、ミラには少し嬉しかった。
「痛みは?」
「朝は少しあった。今は鈍い」
「熱は?」
「昨日よりましだと思う」
「“思う”ではなく、感じたことを具体的にお願いします」
ミラが言うと、エリオットは少しだけ眉を寄せた。
「……手首の内側が熱い。肘までは上がっていない。指先の痺れは残っているが、親指と人差し指は昨日より動かしやすい」
「はい。よくできました」
「子ども扱いするな」
「痛みを正確に報告できた患者さんには、きちんと評価します」
「やはり子ども扱いだろう」
そう言いながらも、エリオットは以前ほど不機嫌そうではなかった。
ミラは右腕に手を添え、温度を確かめる。
確かに熱は落ち着いている。瘴気の反応も昨日より荒れていない。
白い刃の光は、黒い靄の奥で静かに揺れていた。
ミラは慎重に魔力を流す。
強くは押さない。
通り道を探すだけ。
エリオットは目を閉じ、呼吸を整えている。
「痛みますか」
「少し」
「どのくらいですか」
「十のうち、三」
「では続けます。五を超えたら言ってください」
「ああ」
以前のエリオットなら、痛みを隠しただろう。
けれど今は違う。
痛みを言葉にする。
熱を報告する。
できることと、できないことを受け入れる。
それもまた、回復の一部だった。
ミラはそっと手を離した。
「今日は軽い棒を使います」
その言葉に、エリオットの目が開いた。
「木剣か」
「違います」
「……違うのか」
「薬草を束ねる時に使う細い棒です。木剣よりずっと軽いものです」
ミラは机の下から、細く短い木の棒を取り出した。指の長さほどで、軽く、丸みを帯びている。
エリオットはそれを見て、微妙な顔をした。
「これは剣ではない」
「剣ではありません」
「棒ですらない。枝だ」
「枝でもありません。リハビリ道具です」
エリオットは深く息を吐いた。
「君は本当に容赦がない」
「治療方針です」
「便利な言葉だな」
「はい」
ミラは木の棒を机の上に置いた。
「今日はこれを、右手で三呼吸だけ支えてみます。握り込まないでください。添えて、軽く保持するだけです」
「三呼吸」
「はい。四呼吸目に入ったら止めます」
「少なすぎる」
「昨日まで布をつまんでいた人が言う台詞ではありません」
「……」
エリオットは反論できなかったらしい。
慎重に右手を伸ばす。
親指が木の棒に触れる。
人差し指が遅れて曲がる。
中指が震えながら添えられる。
ミラは彼の手首を軽く支えた。
「力を入れすぎないでください」
「分かっている」
「肩に力が入っています」
「……分かっている」
「呼吸してください」
エリオットは、少しだけ苦々しい顔で息を吸った。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
「離してください」
エリオットはゆっくり手を開いた。
木の棒が机へ落ちる。
乾いた小さな音。
それだけだった。
だが、エリオットはその棒をしばらく見つめていた。
「……持てた」
「はい」
「三呼吸だけだが」
「三呼吸も、です」
ミラは帳面に記録する。
――軽木棒、三呼吸保持。痛み三。熱感増加なし。
エリオットは横からそれを見て、低く呟いた。
「また大げさに記録している」
「大げさではありません。大切な進歩です」
「これが?」
「はい」
ミラは顔を上げた。
「剣を握る手も、まずは軽い棒からです」
エリオットは黙った。
その灰青色の瞳に、悔しさと希望が同時に揺れる。
剣にはまだ遠い。
けれど、遠いだけだ。
道がないわけではない。
「もう一度」
「今日はあと一回だけです」
「二回は」
「一回です」
「……一回」
「はい」
エリオットは小さく息を吐いた。
「一回でいい」
ミラは思わず瞬きをした。
以前なら、彼はきっと無理を押してでも続けようとした。
けれど今は、自分で止まろうとしている。
それが、ミラには何より大きな進歩に見えた。
二度目の保持も三呼吸で終えた。
痛みは四まで上がったが、熱は強くならなかった。
「今日はここまでです」
「ああ」
エリオットは素直に頷いた。
ミラは少しだけ笑う。
「今日はちゃんと聞いてくれますね」
「聞かないと、君は怒る」
「怒りません」
「怒る」
「治療上、必要な指摘をするだけです」
「それを怒ると言うんだ」
エリオットの声に、わずかに笑みが混じっていた。
ミラは胸の奥が少し跳ねるのを感じ、慌てて帳面に視線を落とした。
患者の経過が良いからだ。
そう思うことにした。




