白光を恐れる男 3
ヴィクトルが退室した後、ガレスは一人になった。
壁にぶつかった文鎮が床に転がっている。
彼はそれを拾わなかった。
代わりに、奥の棚から古い書物を取り出した。
王家の守護騎士に関する秘匿写本。
表紙には何も書かれていない。
だが、内容はガレスの記憶に焼きついていた。
守護騎士は王家の光。
魔を断つ白刃。
腐敗した血脈と場を清め、偽りの契約を断つ。
忌々しい。
腐敗という言葉を使う者は、いつも自分が正義だと信じている。
だが、国とは清らかさだけで動くものではない。
金がいる。
取引がいる。
沈黙がいる。
時には、切り捨てる者も必要だ。
ガレスはそう信じていた。
自分は王国を壊そうとしているのではない。
むしろ、保っている。
王家が夢想する白い理想だけでは、この国は回らない。
だから、汚れを引き受ける者が必要だ。
そして、汚れを暴く光は邪魔だ。
エリオット・バーンスタンは、地方出身の若造にすぎなかった。
それなのに、あの白い光を宿した。
宿してしまった。
「運が悪かったな、バーンスタン」
ガレスは写本を閉じた。
「お前がただの騎士であれば、生き方は違っただろうに」
その声に、同情はなかった。
ただ、邪魔な駒を見定める冷たさがあるだけだった。
副団長室を出たヴィクトルは、廊下の端で足を止めた。
手のひらに汗をかいている。
ガレスは、必要なら自分を切る。
そんなことは最初から分かっていた。
それでも、実際に首筋へ刃が近づくと、理解と恐怖は別物だった。
二年前の黒塗り木箱。
七つの押収品。
そのうちのいくつかは、正式な記録から消えている。
自分が手配した。
自分が署名した。
自分が見なかったことにした。
エリオットの右腕が再び動くなら、過去は戻る。
戻ってはならない。
「……処理するしかない」
ヴィクトルは呟いた。
記録室の男を団長室へ行かせない。
通行証の記録を曖昧にする。
旅費台帳の一部を別件に付け替える。
できる。
できるはずだ。
だが、ユアン・クロフォードが動いている。
あの男は派手ではないが、見落とさない。
厄介だ。
ヴィクトルは廊下の向こうを見る。
その先に、団長室がある。
今まで眠っていた騎士団長が、ゆっくり目を開けようとしている。
その事実が、王都の廊下を冷たくしていた。
一方、団長室では、アルベルトがヘルムートから報告を受けていた。
「記録室名義の外勤届に不審な空白があります」
「どの件だ」
「リンドル方面。正式な命令書はありませんが、旅費の仮払いに似た処理がありました。ただし、別件名で処理されています」
「誰の承認だ」
「ヴィクトル・グレイン卿の印が」
アルベルトは目を閉じた。
こめかみに鈍い痛みが走る。
だが、彼はその痛みを押し返した。
「写しを取れ。原本は動かすな」
「承知しました」
「ユアンにも共有する。ただし、ガレスにはまだ出すな」
「はい」
ヘルムートが退出した後、アルベルトは机の紙を見た。
――バーンスタン。試し石。白光。忘れるな。
その下に、新しい言葉を書き足す。
――記録室外勤。リンドル。ヴィクトル印。ガレスへ未報告。
書いている最中にも、頭痛はあった。
だが、今度は止まらなかった。
アルベルトは低く呟く。
「光を見た者が、私だけではないはずだ」
エリオット・バーンスタン。
もしお前が本当に守護騎士なら。
私は今度こそ、騎士団長として、お前を守らねばならない。
その日の夜、ガレスは再び黒い通信具の前に立った。
水晶片に手をかざす。
しばらくして、セヴランの声が響く。
「またですか。副団長閣下も忙しいですね」
「ふざけるな」
ガレスは低く言った。
「グレイルで何を見た」
「素晴らしいものを」
「答えろ」
「ミラ・コックスは、黒い術式を浮かせる。エリオット・バーンスタンは、それを断つ。単独では不完全。二人が揃うと届く」
ガレスの顔が歪む。
「なら、ますます危険だ」
「ええ。ますます価値があります」
「観察は終わりだ。右腕を潰せ」
「早すぎます」
「遅すぎるくらいだ」
通信具の向こうで、セヴランが小さく笑った。
「あなたは本当に光が嫌いですね」
「私は火事が嫌いなだけだ」
「火事を恐れるなら、油を運ばなければよかった」
ガレスは水晶片を握りしめた。
「セヴラン」
「分かっています。あなたの焦りは理解しました」
「なら」
「ですが、私の研究を壊すような真似はしないでいただきたい。エリオットを殺せば、あの治療師の反応も変わる。右腕を完全に潰せば、二人で断つ現象も観察できなくなる」
「私は研究のために騎士団を危険に晒しているのではない」
「いいえ。あなたは権力のために禁術を使った。その結果が今です」
沈黙が落ちた。
ガレスの目が、氷のように冷たくなる。
「忘れるな。お前の研究が王都の中で息をしていられるのは、誰のおかげか」
「忘れていませんよ」
セヴランの声は、相変わらず穏やかだった。
「そしてあなたも忘れない方がいい。エリオット・バーンスタンを二年前に封じた術式。その鍵を握っているのは、私です」
水晶片の光が、黒く揺れた。
「互いに、相手を必要としている。嫌なことですが」
通信はそこで途切れた。
ガレスはしばらく水晶片を見下ろしていた。
協力者。
いいや。
毒だ。
だが、今さらその毒を捨てれば、自分の血にも回る。
ガレスは静かに息を吐いた。
「ならば、毒ごと使い潰すまでだ」
同じ頃、グレイル村では、ミラとエリオットが薬草茶を飲んでいた。
オリヴァーの指示で、今日は早めに休むことになっている。
窓辺の反応針は薄曇り。
換気具は静かに動いている。
ネロの黒輪は抑制具によって落ち着いている。
完全な平穏ではない。
けれど、昨日よりはましだった。
ミラは帳面に最後の一文を書いた。
――黒いものは、同じ根を持つ。
――だが、根を辿るには、まだ時間が必要。
その時、遠い王都で、ガレスがエリオットの右腕を再び折る算段をしていることを、二人はまだ知らない。
ただ、エリオットの護符が一瞬だけ熱を持った。
彼は顔を上げる。
「どうしました?」
ミラが尋ねる。
「いや」
エリオットは護符を見下ろした。
「嫌な感じがしただけだ」
ミラは窓の外を見る。
灰色の夜が、村を包んでいた。
光を恐れる者たちが、王都の奥で動いている。
けれど、グレイル村の小さな診療所には、まだ白い花の灯りが消えずに残っていた。




